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稚児ケ坂のはなし

 むかし奥州街道が江戸幕府の五街道であった頃「行程記」(ぎょうていき)という江戸までの道中案内書が奥州の大名家でつくられていた。

 

 その書によると白沢の稚ケ坂付近の絵に「この坂でころべば死すと申候、古事かまた俗にちかき説か土地に曲つけたるに候か」と街道絵の下段に書かれ、上段には「昔いくつになるか稚児がこの坂で転んで死んだ。よって稚児が坂と呼ばれている。往来の者も心得て通るようにと、馬子共の話である。」との意味のことが書かれている。

 

 他の絵図部分は地名や名物風景描写が多いなか稚児ケ坂の話は街道筋でも有名な古事であったのかも。

 地元にも「建久(けんきゅう)年中(1290〜99)奥州筋公家あり、当地内街道坂にて稚児死す。以後これをあわれみこの坂を稚児ケ坂と改め、坂上に葬り供養仕り候」と古文書にある。

 

 この坂(白沢街道の王子板紙(株)の付近)を通るとき昔より語り継がれてきた「稚児ケ坂のはなし」を思い浮かべてください。

 

広報かわち 2007年2月号より

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