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逆井戸のはなし(1)

 むかし昔のそのむかし、田原郷の隣り郷に、人の面が時として逆さに映る不思議な井があったそうです。この郷の人々が豊かな暮らしをしていた頃奈良の都では、女性天皇の称徳天皇の時代で、太政大臣から法王の地位に弓削道鏡と言う禅師がついていました。

 

 道鏡が法王になってから3年目に「宇佐八幡神託事件」が起こり、翌年の称徳天皇崩御から4日後に、道鏡に対して、造下野国薬師寺別当に任ずる令が発せられたとか。当時薬師寺は日本三戒壇の一つでしたが、道鏡はそこに流配となったのです。  

 

 下野に来て後、道鏡は各地を歩き当地を訪れたのは、宝亀3年の夏であったとか。暑さにのどが渇いたので、井泉の水を求めると老婆が「この井は不思議な井で心の横しまな人がのぞくと面が逆さに映る」ち言ったとか。

 

 道鏡が井をのぞくとなんと面が逆さに映ったそうです。道鏡は自らの面が逆さに映った訳を知るためか、井の北側の岩山にある洞窟に籠ったそうです。その後道鏡はこの地で没し、なきがらは戸板に乗せ薬師寺に運ばれたと伝えられています。

 

 道鏡の面が逆さに映ったことから、この地は「逆面」、その井は「逆面の井」、籠もった洞窟は「道鏡のこもり堂」と呼ばれるようになったそうです。

 

次号へつづく

 

広報かわち 2006年10月号より

逆井戸のはなし(2)

 時は移って戦乱も終りつつある頃、逆面の地の領主は宇都宮家の逆面安房守(あわのかみ)でした。父の逆面周防守(すおうのかみ)は皆川正中録でも武勇を轟かせた武将でしたが、慶長2年(1597)宇都宮家が所領没収となり、必然的に逆面城も引渡さなければなりませんでした。

 

 浅野長政の郎従が城受けに来た時、乱世ゆえ逆面周防守(すおうのかみ)の娘千津姫は、追手と間違え堀の内の館から、日頃織っていた機具の「杼」(じょ)を持って逃げました。しかし逆面の井まで来た頃には力つき、ついには井に身を投じたのです。

 

 この時持っていた「杼」は黄金で造られていたとか。またこの年の春、千津姫の顔が逆さに映ったとか。

 その後、逆面氏の家臣達が帰農土着した江戸時代になっても、幾度か顔が逆さに映った話が伝わり、その不思議さが「明神底なしの井戸」や勝道上人ゆかりの「姥ケ井」と一緒に「逆面の井」が下野七水に選ばれたのでした。

 

 文化・文政の頃宇都宮鉄砲町の町名主だった上野久左衛門が、「逆面の井」を訪ねて見ると井泉の面影はなくなっていたそうです。

 

(次号へつづく)

 

広報かわち 2006年11月号より

逆井戸のはなし(3)

 文化・文政の頃、宇都宮の町名主だった上野久左衛門が、逆面の井を訪ねると井泉の面影は無くなっていたそうです。その年しか寿命のない人が井をのぞくと顔が逆さに映るのを忌み嫌った村人たちが、埋めてしまったためでした。

 

 井泉は一間四方ほどの塚状となり、中央に井戸の形を造り、毎年幣帛相納め、これを「逆井戸」と唱えるようになったそうです。それを聞いた上野久左衛時は、大変残念な思いを「下野風土記」に書き留めています。

 

 天保14年12代将軍家慶公が、日光にお成りになった折、この不思議な話についてお尋ねがあったと、地頭所に提出した古文書の控えが残っています。

 

 時はさらに下って大正時代、千津姫にまつわる黄金伝説を信じた3人の村人が井戸を掘ったが、ドロドロで掘りきれず、目的は達せられませんでした。ところが不思議なことに3人とも、その年に亡くなったそうです。

 ロマンに満ちた「逆井戸」をみなさんも、ぜひ訪れてみてください。

 

広報かわち 2006年12月号より

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