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白沢宿今昔(31) ウナギの寝床の話(1)

昭和50年頃の白沢宿

 白沢宿に、よその地区から最近、お嫁にこられた方は、隣近所みな同じような間口や家並、さらに名字もあるといった複雑さにおどろきます。

 

 これは先にも述べた通り、徳川幕府の政策として参勤交代制度が始まり、街道筋に宿場が開かれました。上岡本庄屋福田家文書に、「慶長14年(1609)3月、白沢町割り、お役人並に御領主奥様家来衆が当町に出張いたしました。」と記録されているように、近くに住む農家が同地に集まり、宿場を開きました。

 

 道幅凡そ7間(約12.7m)道路の中央には湧水を利用した用水堀を配し、人馬の利用に便利にし、また火災などの非常用などに使用され、なお町内数ヶ所に共同の堀抜き井戸を設けました。現在の用水堀は道路の左右に流れているが、これは明治の初め改修によるものです。

 

 宿内の道路の長さ4町20間(約472m)、この道路のことを往還(おうかん)とよびました。

 

 間口が狭く、奥行の深い町割りは「ウナギの寝床」のようだと言われています。

(つづく)

 

昭和59年(1984)7月20日 第174号掲載

白沢宿今昔(32) ウナギの寝床の話(2)

仙台屋の赤松

 白沢宿の町割りは、本陣・脇(わき)本陣などをのぞき、間口は5〜7間(1間は約182cm)内外とし奥行は、地形上奥行のとれる長さに応じて間口がきまったようである。たとえば奥行のとれる敷地ほど間口は狭くなる。一戸の敷地は200坪内外(1坪は約3.3m2)とし、多くの家が往還(おうかん)に面するように工夫されました。

 

 したがって「ウナギの寝床」のような細長い敷地となり、そこに建てられた家屋も同様なものとなりました。

 

 間口が狭いために、家の裏にある納屋より、荷車や馬を引き出すには、表の家屋の中に通路を設け、出入口の扉を上げ戸(天井に吊す形式)にするなど、工夫して生活をした姿が最近まで見られました。戦後ほとんどの家が建て替えられましたが、細長い敷地の形式は現在でも続いています。

 

昭和59年(1984)8月20日 第175号掲載

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