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岡本城跡

岡本城跡推定略図

 中岡本根古屋(ねごや)の台にある古城址で、鬼怒川の河岸段丘を利用し、東北面は急崖(きゅうがい)で下に九郷半川の清流を配し、西南面は平坦地になっている。

 

 古里村誌によれば「南北百八拾間(327.6m)、東西百七拾間(309.4m)、面積は凡そ十町(99,100m2)余りあり、四囲を廻らすに五重の濠をもってす。各濠の深さ凡そ八間(14.56m)あり」というように規模の大きい堅固(けんご)な城郭(じょうかく)であった。

 

 本丸跡は東北部の小高い所にあり土塁、濠なども現存し当時を忍ばせている。

 

 今の台岡本や根古屋は当時の城下町であり、台岡本の西町という小字名がその名残である。また、馬場跡、的場跡と呼ばれている場所もある。

 

 築城者は岡本信濃守富高といわれている。従って築城年代は室町初期といえる。

 

 芳賀氏系図によれば、富高は宇都宮氏の重鎮(じゅうちん)芳賀禅可入道高名の弟で岡本氏の祖となり、足利尊氏・直義兄弟の争った駿河薩山(さったやま)合戦、観応2年(1351)12月で壮烈な討死(うちじに)を遂げ、その子信濃守正高も貞治2年(1363)8月武蔵岩殿山で討死とあり正統は絶えたようである。

 

 富高については太平記巻三十九に記されている。貞治2年芳賀禅可が武士の意地から僅(わず)か八百の少勢で、足利基氏一万余の大軍と武州若林に合戦した時、参加した富高は単身敵陣に突入、身代りと知らず重臣若松治部太夫を襲い、郎党金井新左衛門と組んで壮烈な相討ちを遂げ世に名をうたわれた。

 

 しかし芳賀氏系図によればこれは正高になる。

 

 その後岡本、玉生氏などが城主となり、慶長2年(1592)10月宇都宮氏の滅亡と共に廃城となるまで宇都宮の東部の守りを固めていたようである。

 

 今は本丸跡の外は、濠も土堤もなくなり、昔を偲ぶよすがも少なくなったが子孫のためにでき得る限りその姿をとどめておきたいものである。

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