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郷土史話(10) 河内町の水利・用水(1)

昔九ヵ村半を潅漑したというところからその名が生まれた九郷半川

逆木用水

 

 古文書に「宝暦4年(1754)小倉外四十七ヵ村逆木用水組合なるもの見えたり。関係石高左の如し。一、西鬼怒川田用水旧領四十八ヵ村此高八千五百七十二石九升八合七勺」とあるところを見ると相当古くから重要な用水であった。

 

 昔は西鬼怒川のほうが水量が豊富であって、東西両下ケ橋の交流は舟便によってなされていた。

 

 明治29年(1896)の洪水には芦沼方面から水が押寄せて白沢から和久方面は水浸しになった。

 

 明治35年(1902)9月の大洪水も凄まじかった。下ケ橋で床上二尺、馬の腹に水がついた。石上の鉄橋(東北本線)に水が乗った。それ以来、川の瀬が変わったが、明治の中頃まで東下ケ橋への交通は、やはり舟で行われていた。

 

 その後、県会議員矢島中(宇都宮)・田代修二郎(矢板市片岡)等が中心となって、関係町村協力し、逆木用水改修の運動が起こされ、これに関する陳情(ちんじょう)が県会の取上げるところとなって現在のような逆木用水路ができた。

 

九郷半川

 

 下ケ橋地区内にて西鬼怒川より分流して、白沢に至り矢川を合し、宇小枝川にて根川を分流し内川となる。

 

 その名の示す通り、その灌漑(かんがい)の及ぶ所、九郷半(九ヵ村半)に及ぶというので生まれた名称で、西下ケ橋上手から西鬼怒川の水を引き入れて旧古里地区、平石地区の大部分を潅漑して今日に至っているこの用水の歴史は相当古いものである。(資料古老懇談会記録から)

郷土史話(11) 河内町の水利・用水(2)

御用川

 

 別名御用堀ともいう。元和5年(1619)10月本多上野介正純駿府より宇都宮城主となる。彼は着任と同時に城郭及び城下町の大改革を断行した。これらに使う御用材を、北部山間地区より運ぶため上手村の逆木から城下に通ずる水路を開削した。

 

 元和6年(1620)当時の川幅は九尺(2.7m)新筏川と呼んだ。後、寛文8年(1668)時の城主松平下総守大改修を行って川幅を広げ、北方からの物資と年貢米の運搬に利用し、併せて上小倉・下小倉・芦沼外沿岸村々の水田の灌漑にも大いに役立て、一石二鳥の効果をあげた。そのためにこの堀を御用川と名付けた。

 

 享保8年(1723)8月10日の五十里洪水(いかりこうずい)によって荒廃はなはだしく、用を弁じなくなったので、第三十六代宇都宮城主戸田山城守忠真によって水利に関係ある沿岸の農民が大動員され大規模な修理が行われ、それが今に見る御用川である。

 

 下りには主として米及び木材などが運ばれ、上りには生活必需の雑貨が運ばれた。両側の土堤(どて)を広くとって、上りの舟は船頭が綱で引いて、この土堤を上ったという。

 

山田川

 

 今に至るまで別段の変化もなく、田原地区一円の水田を満たし、宇都宮に入って田川に合流し、昔は水運の便にも利用されたらしいが、本町地区内ではそういう話を聞かない。

 

用水西堀

 

 田原地区古新田村(古田)より来る御用川支流、長峰新田字久保の内にて二つに分流し、支流を用水東堀という。

 

 長峰地区の用水に便じ、余水は田原地区に流れる。

 

新川堀

 

 絹島より下ケ橋八町地内に入り南流して白沢舟渡に入る。

 

矢川

 

 絹島より下ケ橋字宮ノ前に入る、当字の悪水を呑集(どんしゅう)して白沢に入る。

(資料古老懇談会記録から)

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