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白沢宿今昔(12) 白沢宿のうつりかわり(1)

白沢宿の町割り
(町誌より)

 白沢宿本陣、宇加地家文書より 「宇都宮氏滅亡後、慶長2年(1597)浅野殿城主となり、翌年お縄入れ、これを浅野殿縄と申し……。」

 

 上岡本庄屋文書には

 

「慶長10年(1605)御役人より源六郎召し出され、御伝馬、次送り方万事御尋ねに付、子細申し上げましたところ、よくお聞取り、取調べの上、往還と定問屋に仰せ付けられ帰村……。」

 

 先に認めた通り因幡民部と話し合い、間の宿と定め村は両組と分れ、御年貢、諸上納共別々であるが表向きは白沢町といいました。

 

 慶長13年(1608)3月、白沢町割り、幕府役人並に御領主奥平様家老衆が、当宿に来られました。

 

 寛永19年(1642)御条目を持って参りました。

 

「白沢町家数九十八軒、名子百姓共馬数六十六匹……。」とあります。

(つづく)

 

昭和57年(1982)12月20日 第155号掲載

白沢宿今昔(13) 白沢宿のうつりかわり(2)

現在の白沢南坂切通し

 上岡本庄屋古文書より「寛永13年(1636)、当所と南坂切通し道幅手入れの為、奥平様役人、桑名主菜殿・奥平与惣兵衛殿お立会になり郷人足にて改修……。」現在の白沢南の坂道は狭い道路で役人立会の上、村人によって道幅拡張工事が行われたようです。

 

 

 

 「鬼怒川渡番については昔より上岡本村・白沢村・上阿久津村の三ヶ村にて勤めておりましたところ、寛文11年(1671)亥年の大洪水にて逆木より東西の両鬼怒川に分水となったので、延宝6年(1678)午3月より上岡本・白沢の両村にて西鬼怒川を勤める事を取決め、船頭の給料として、正保年間(1644〜47)まで、御領主様より両村へ年、15石(2250kg)を賜りました。その後承応2年(1653)より7石5斗(1125kg)となった。」

 

 このような古い文書があります。

(つづく)

 

昭和58年(1983)1月20日 第156号掲載

白沢宿今昔(14) 白沢宿のうつりかわり(3)

白沢村宿割
(町誌より)

 白沢宿本陣、宇加地家文書より

 

「安永3年(1774)領主所替の為、翌4年(1775)白沢村より差し出された明細書控」

 

一、高368石5斗7升6合5勺(5万5376kg)

  面積62町1反6畝6歩(約61万6025kg)

一、林一ヶ所、上の台・峯通り

  山守、半左衛門・作右衛門・小右衛門

一、馬草刈場は地内、上野・河原

一、小鵜飼舟一艘 舟主半左衛門

一、九郷半大橋一ヶ所、長さ11間(20m)、幅1丈(3m)

一、宿内土橋一ヶ所、長さ2間(3.64m)、幅9尺(2.7m)、小橋十四ヶ所

一、田方、苗代春土用末種蒔五月中植付

一、郷倉一ヶ所、敷地1畝(99m2)

一、大工一人、吉八

一、当村中諸役勤馬6匹

一、家数52軒、人217人、内男123、女91、僧3人

一、寺二ヶ所、真言宗明星院、無住泉蔵院

一、宮五社、堂二宇

一、祭礼、9月29日

 

昭和58年(1983)2月20日 第157号掲載

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