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白沢宿今昔(9) 白沢宿のはじまり(1) -上杉景勝の謀叛-

上杉討伐軍配連図 慶長5年7月

 越後の戦国大名上杉謙信の養子、景勝は豊臣秀吉の信用厚く、会津112万石に移封されましたが、秀吉の死後、秀頼の補佐役の徳川家康に叛心(はんしん)のあることが伝わり、家康は大いに怒り慶長5年(1600)7月、上杉を討伐(とうばつ)すべく諸軍に命を下しその子秀忠を将として3万7千の軍勢、また後軍は家康自ら3万2千を率い、下野小山に到着しました。

 

 先陣はすでに当地の鬼怒川沿いの白沢に陣をはり、時を待ちました。これに対し上杉軍は白河の南にある皮籠(かわご)に5万5千の兵を進め、ここに徳川軍をひき入れ、一挙に決戦する有利な戦法と準備しました。

 

 当時の白沢の様子を、上岡本庄屋古文書には

 

「結城秀康、当所へ御陣場、字上の台久保並に切通し、向丸山の両所に丸太に、坂上蛇喰より向丸山に櫓相建て、当所近郷人足にて急拠でき仰付、それより会津表進発先陣、伊井掃部頭・酒井左衛門尉・榊原式部大輔その外先手、阿久津・氏家・桜野へ着陣に相成候、そのみぎり源六郎右京之進鬼怒川瀬渡り御案内仕候」

(つづく)

 

昭和57年(1982)9月20日 第152号掲載

白沢宿今昔(10) 白沢宿のはじまり(2) -上杉景勝の謀叛-

関が原の戦中の下野の配陣

 慶長5年(1600)白沢におきた大事件です。

 

 宇加地家文書には「先陣榊原武部大輔・伊井掃部頭・酒井左ヱ門尉その外先手、松山・桜野・氏家・阿久津まで着陣、結城秀康、白沢に着陣、御陣場太郎左ヱ門うらの林、この頃林の木もなく、太郎左ヱ門先祖、御陣の御用相違申候。その節、太郎左ヱ門先祖、因幡父子まかり出て、先勢を鬼怒川瀬渡り御案内仕候……」

 

 明日にも下野北部で戦がはじまろうとする状況となったその前夜突然大阪より小山にいる家康のもとに石田三成の謀叛(むほん)の知らせがあり、直ちに徳川軍諸将の小山評定が開かれ、一部を宇都宮・白沢方面にとどめ関ヶ原の石田方を討つこととした。

 

 口碑(こうひ)によれば、小麦の収穫期で忙しい時だったそうです。小山に召集を命ぜられた大田原の殿様が、馬上姿も勇ましく、家康をつれて真夜中に白沢を急ぎ通過するなど、あわただしかったといわれています。

(つづく)

 

昭和57年(1982)10月20日 第153号

白沢宿今昔(11) 白沢宿のはじまり(3)

上岡本、白沢の地境に植えられたエノキ(1997年2月撮影)

 上岡本庄屋文書によると、

 

「関ヶ原合戦後、当所往還(おうかん)の役目改のとき、上岡本にては村も小さく、馬の取次ぎなど支障もあることなので、田原村竜池山明星院と申す真言宗のお寺に住んでいる因幡並に民部と申す侍が村人を引き連れ、当所の地境を相改め、間の宿となり公には白沢町と申すように相成。」

 

 白沢本陣、宇加地家文書には、「関ヶ原合戦の御吉例にて、太郎左衛門先祖因幡公儀へ願い、往還馬次宿に仰付られ、白沢のみにては小村にて馬次難渋に付、上岡本村を引き入れ相勤め申し、内々は白沢、上岡本の両村に分れておったが表向きは白沢町として、往還馬次宿に江戸表へその節は指達、御条目等もなく、御役人より口上にて仰付けられ由……」

 

 両文書を比較して見ると、白沢宿の開かれたのは、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後であること、白沢・上岡本の両村がどちらも小村のため、一緒になり公には白沢と申していることなど一致している。

 

昭和57年(1982)11月20日 第154号掲載

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