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白沢宿今昔(58) 稚児ヶ墓の由来と妙哲尼筆の供養塔

供養碑

 河内町役場周辺に稚児ヶ墓(ちがはか)とよぶ地名があります。数年前、土地を求めに来た人が、地番を調べびっくりして引きさがったという話があります。

 

 稚児ヶ墓の地名の由来については、鎌倉時代初期の建久年間(1190〜98)、奥州総奉行に任命された伊沢家景一行が当所通行、赴任(ふにん)の途中、同行の幼児が海道坂において亡くなり、その遺体は白沢南坂上に、村人によりねんごろに葬られました。その後、海道坂を稚児ヶ坂(ちがさか)と呼ぶようになりました。また墓所周辺も稚児ヶ墓と呼ぶようになりました。

 

 

 現在、墓所には稚児地蔵が安置されている。鎌倉時代のものと思われる。高さ約6尺(約1.8m)ほどの五輪塔や、江戸時代末期の慶応年代に奉納建立された、和久(わぐ)の行者さまと呼ばれた妙哲尼筆の「南無阿弥陀仏」と一種独特の書体で書かれた、これまた6尺大の供養碑などがあります。

 

 毎月24日の縁日には、安産・子育ての守り地蔵として郷土の人たちに供養され、約800年前の歴史を物語っております。(現在の白沢地蔵堂)

 

昭和61年(1986)10月20日 第201号掲載

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