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ふるさと探訪(20) 菊地教中と消息往来

消息往来の一部

 東岡本はもと岡本新田と言いまた、佐孝新田ともいわれました。これは一名佐野屋孝兵衛と呼ばれた菊地教中が、私財を投じてこの土地を開拓したためであります。

 

 教中は、文政11年(1828)菊地知良の長男として、江戸日本橋元浜町に生まれました。教中が生まれた時には、父知良は商才と努力によって、真岡木綿の中継問屋と両替商とに手を伸ばし、関東一円に支店五十余軒を持つ一大富商となっており、当時間口十間(18.2m)、奥行二十二間(40.04m)の大店を持ち、家族や雇人(やといにん)百十余の大世帯であったと言います。

 

 父知良は商才にたけていた一方学問にも熱心だったため、教中も幼い時から明敏(めいびん)で読書、習字を好み長じて佐藤一斉の門に入り漢字を学び、後年勤皇(きんのう)の志士(しし)として義兄で儒者の大橋訥庵とともに坂下門外の変、文久2年(1862)1月15日に連座し、8月35歳の若さで没しました。

 

 教中は、商売に尽力(じんりょく)する傍(かたわ)ら佐野屋の店員の教育にも熱心で「店教訓家格録」を見ると、商家であっても使用人に至るまで常に学問を進めることを怠らなかったことがわかります。写真の消息往来は番頭和兵衛に教材として与えたもので、教中を偲ぶ資料の一つといえます。

(資料提供 台岡本高橋正氏)

 

昭和53年(1978)4月20日 第99号掲載

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