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白沢宿今昔(75) 養蚕の里(1)

蚕や桑の葉模様入り茶敷
(宇加地太嘉雄氏蔵)

 明治時代となり、白沢宿は寂れるばかりとなりました。そこで復興の一つの手段として、日米貿易の開始により、有利に輸出される生糸の原料となる、繭(まゆ)の生産が宇加地家などの呼びかけによって始められました。当家では率先して蚕種の生産や蚕の飼育にあたりました。宿内の農家もこれに協調し、当地の養蚕業はますます振興するようになったと言われています。

 

 蚕の飼育は6月の春蚕、8月の初秋蚕、9月の晩秋蚕と3期行われました。養蚕組合を組織し、稚蚕期の飼育、蚕具や桑の肥料購入、繭の出荷など共同で行い、養蚕教師を招き指導を受けるなど、組合活動は県下に誇る見事なものとなりました。現在の町役場や白沢小学校付近の畑地は、見渡すかぎり蚕の飼料となる桑畑でした。

 

 生糸は明治から戦前を通じ、輸出品の第一位となり、それにつれ当地の養蚕業も盛んになりましたが、太平洋戦争による混乱と、化学繊維の開発などにより、衰えることとなりました。

 

昭和63年(1988)3月20日 第218号掲載

白沢宿今昔(76) 養蚕の里(2)

大正初期の白沢宿

 白沢宿桑園肥料の共同購入のおもかげ

 

 桑畑の肥料として、中国産の大豆粕(かす)を共同購入の初荷風景である。白沢宿を背景にしためずらしい写真で、家並や人物などから見て、大正時代初期の写真であろう。幟旗(のぼりばた)には「白沢養蚕組合行」としるされている。

 

 

 

真綿つくり講習

 

 繭加工の一つとして、行われた真綿つくり講習の写真である。会場は養蚕組合長宇加地宅の蚕室で、大正4年(1915)9月撮影のものである。

 

 このほか、いろいろな組合活動が活発に行われ、県下に誇る養蚕組合として、白沢の名が知られるようになった。

 

昭和63年(1988)4月20日 第219号掲載

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