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岡本あれこれ(23) 上岡本村(1)

和久の地番図(須藤氏所蔵)

 昔、上岡本村という村が存在したことを、現在の河内町の人は御存じでしょうか。殆(ほとん)ど知らないのではないでしょうか。

 

 明治5年(1872)の学制布達(がくせいふたつ)により、岡本と白沢に小学校が開校されたのが、明治6年(1873)で、このころすでに、上岡本村と白沢宿は一緒になっていたと考えられます。上岡本村は、現在の中岡本和久(わぐ)と白沢の一部にまたがる広い地域で、田・畑・山林も広く、豊かな村でした。

 

 江戸時代以前は上・中・下の三ヵ村を合せて、岡本郷と呼ばれていました。総石高は江戸時代の調査で2388石9斗8升3合(358.4t)もあり、一村では大き過ぎるということで、元和6年(1620)に岡本郷は上・中・下に分けられ、その内上岡本村は540石(81t)となりました。

 

 和久の板賀の須藤俊郎氏宅に保存されている「和久の地番図」によると、明治17年(1884)6月30日現在の和久は意外に広大で、奈坪・図書館・古里中学校、鬼怒川沿い、根古屋(ねごや)境・白沢境まで含まれていました。

 

平成2年(1990)7月20日 第246号掲載

岡本あれこれ(24) 上岡本村(2)

 太閤(たいこう)検地帳によると上岡本村には、白沢宿の全部が含まれています。耕地の名称は、川原畑・川上・川うけ・大木ノ内・川はた・といこし・中川原・向田たつのを・しはそい・柳そい・石はたけ・すなはたけ・石川原畑・川田・川そい・上の原・みすみ内などと呼ばれていました。

 

 太閤検地帳としては非常にめずらしい面積表記がありました。それは「下畠半拾歩(しもはたはんじゅうぶ)」という表記で、上巻1冊だけで30ヵ所もあります。これは徳川家康が天正18年(1590)に秀吉から、関東地方を与えられたころの検地に使用された面積表記なのです。これは秀吉の場合と違って、1反歩が360歩「大」と呼ぶのが240坪、「半」が180坪、「小」が120坪でした。秀吉の場合は1反歩300坪で、1畝が30坪、1坪が1間四方に定められ、今日に至っています。

 

 検地帳の中に「下畠半拾歩(したはたはんじゅうぶ)」というような徳川と豊臣方の呼び方が混在しています。しかも検地奉行は豊臣方ですから、珍しい間違いなのです。したがって、「下畠半拾歩」という面積は、豊臣流に言えば190歩、つまり6畝10歩(坪)となります。家康が、秀吉以前にこの地方の検地をやっていたことは間違いのない事実のようです。

 

平成2年(1990)8月20日 第247号掲載

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