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岡本あれこれ(1) 岡本という所(1)

上空より岡本駅周辺を望む

 応永18年(1411)12月8日、宇都宮持綱が、現在の中岡本申内地内にあった給部という所の、4町歩(4ha)の田圃(たんぼ)を、宇都宮市内に現在も残る「一向寺」へ寄進(きしん)しました。その後も宇都宮氏から一向寺あてに出され「公事免除状」等の文面から、岡本の地名が使用されたことは確認できます。

 

 この事から、昔の岡本は、上・中・下岡本などと別れていたわけではなく、全部ひっくるめて岡本郷と呼ばれていたことがわかります。このことは豊臣秀吉の「太閤(たいこう)検地帳」以後まで岡本郷と書かれています。

 

 この検地帳によると岡本郷の石高は意外に小さく、田畑を合計しても418石5斗余り(約62.8t)、しかしながら元禄10年頃(1697)の石高は2535石4斗余り(約380.3t)になり、約100年で約6倍も伸びたことになります。

 

昭和63年(1988)9月20日 第224号掲載

岡本あれこれ(2) 岡本という所(2)

 前号で岡本郷の石高が、100年で6倍になったと書きましたが、その理由はおよそ次のように考えられます。

 

 豊臣秀吉は、岡本付近が検地された文禄7年(1595)の3年後慶長3年(1598)没し、徳川家康が慶長8年(1603)征夷大将軍に任命されて天下の実権を握りました。そして徳川氏が第一番に行った全国的な施策は、より厳しい形で検地を実施することでした。それと同時に新しい農地を開拓して新田をつくり、これまで大きな農家や武士たちの下で働き暮らしてきた人たちを、農家として独立させる。小農自立政策を行いました。この政策は秀吉が考え、江戸時代になってから急速な発展を遂げました。

 

 この施策を実施するためには、大きな村を小さく分け、庄屋を始めとする村役人を多くし、村の組織を強くする必要もありました。

 

 元和6年(1620)には岡本郷も上岡本・中岡本・下岡本村の三つに分割されました。さらに、寛永16年(1639)頃に、中岡本村を二つに分け、中岡本上組と下組が誕生しました。

 

昭和63年(1988)10月20日 第225号掲載

岡本あれこれ(3) 岡本という所(3)

大ガマなどを使い開墾するようす

拡大された農地

 

 岡本郷は急速に耕地面積を拡大して来ましたが、主に拡大された地域は鬼怒川に近い地域であったと考えられます。

 

 江戸時代初期の鬼怒川は、現在と比べ川幅も広く水量も豊富で、上流地域からたくさんの肥沃(ひよく)な土砂を運んで来たばかりでなく、洪水の度に流れも変わり、少し手を加えればすぐにでも立派な田圃(たんぼ)になる土地も自然に残されていたと考えられます。

 

 それが戦国時代の混乱のために、草地や沼地として放置されていたに違いありません。安土桃山時代に平和の基礎が固まると、戦乱に浪費されていた人間の力が、豊臣政権・江戸幕府の施策に導かれて、耕地の拡大につながったのです。

 

 寛文年間(1661〜1673)頃には、全国の耕地は平均的に見て約3倍になったと歴史家はいっています。あまりにも急激に耕地の開発が行われたために、山野が荒れたり、農民の数が不足したりしたので、幕府は新田開発を中止させたほどでした。ところが岡本郷は、同期間内に、耕地が6倍にもなったのですから、本当に恵まれた地域であったというべきでしょう。

 

昭和63年(1988)11月20日 第226号掲載

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