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白沢宿今昔(7) 盗人神(1)

上岡本庄屋由来の碑

 この話は古里地区が岡本郷と呼ばれていた頃、江戸時代の初めに白沢宿の町割りができる以前の上岡本は、現在の白沢南と和久の中間の峰のふもとの湿地帯(サッタ)に小集落となっていたようでした。昭和20年代に、この付近の排水工事が行なわれたとき、集落跡と称する水田から多数の土台石が出土し、付近には清水がいつもわいておりました。現在は跡形もありません。

 

 室町時代の末期は戦国の世となり、世の中は乱れに乱れ、米作りに働く農民でさえ、疫病(えきびょう)・大飢饉(ききん)など米一粒にも頼る苦しい世の中でした。

 

 

 秋も深まり、上岡本でも家中そろって朝霜を踏み、夕べには星空を抱くまで稲刈りに精を出し、稲束のたまるのを楽しみにしておりました。しかし稲は刈れども、朝起きて稲田を見ると、増えるはずの稲束は増えるどころか減る一方でした。

 

 これは盗人の仕業であることがわかりました。相談の結果、交代で毎夜見張りをすることとなり、ある夜、家人が番をしていると、「背負いはしご」に稲束を積んでいる男を、月のあかりに捕えました。

(つづく)

 

昭和57年(1982)7月20日 第150号掲載

白沢宿今昔(8) 盗人神(2)

上岡本庄屋古文書から

 稲束を盗んで捕えられた男は月夜の下で手を合わせ、罪の許しを乞いましたが、毎夜におよぶ盗難と、血気にはやる村人によって、一刀のもとに切り捨てられ、あたり一面に血しぶきをあげました。本当にその日の食にもこまって、したに相違ありません。村人一同深く哀れみ反省し、その地に祠(ほこら)を建て盗人神として祀(まつ)り、末永くその霊を弔(とむら)いました。明治時代まで同地に祠があり、秋の村祭りには、心ある人によって供物(くもつ)があげられたと伝えられていましたが、昭和20年代の排水工事の結果、やむなく御神酒(おみき)一升をあげ、おはらいとなり、盗人神の地名を残すのみとなり、昔話の一つとなってしまいました。

 

昭和57年(1982)8月20日 第151号掲載

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