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河内地区の彫刻屋台と天棚

昨年十一月一日二日、白沢宿を中心に二台の彫刻屋台が繰り出され、屋台祭りが行われました。

また二日には、西下ヶ橋の屋台祭りが地元で行われ、好天に恵まれて賑わいました。

この様子は地域情報紙や新聞に掲載されたので多くの方が見られたと思います。

このような彫刻屋台が河内地区には六台あり、何年かおきに屋台祭りが行われています。

 

これらの屋台は鹿沼や宇都宮で江戸時代末期に作られ、その後、明治から大正時代に購入されたものです。

 

また当地区には屋台の他に、車のない定置形二階作りの天棚十一台があり、各自治会で保存されています。

屋台・天棚ともに日光東照宮などの影響を受けて、豪華な彫刻で飾られており、民俗的にも工芸的にも大変貴重な文化財といえます。

次回からは、これらの各屋台・天棚の由来や特徴などについて、一台ずつ紹介したいと思います。

 

地域情報紙かわち 第13号

(平成21年5月発行)より

 

 

西下ヶ橋屋台

馬頭や烏山の屋台は車が二つですが、県央の屋台は四つ車が殆どです。

車が彫物の内側にある大きめの屋台を「鹿沼形」、車が外側にあるやや小形の屋台を「宇都宮形」と呼んでいます。

西下ヶ橋屋台は後者で、江戸時代末期に宇都宮で造られたと思われますが、記録がなく詳しいことは分かりません。

以前に古老から聞いた話では、他所から購入し、その後改造や彫物の補刻と彩色を行い、金箔だけでも五十両かかったそうです。

龍や麒麟など想像上の動物から花鳥など、多くの彫物で飾られています。

 

屋台格納庫には、制作当初の龍の彫物が保存されており、専門家によると日光東照宮五重の塔(再建)の彫物を手がけた「後藤周二正秀」作にほぼ間違いないとのことです。

 

現在の屋根の龍は、作風が江戸末期から明治四十年頃に活躍した名工「磯辺義兵衛敬信」の作と思われます。

 

地域情報紙かわち 第14号

(平成21年7月発行)より

 

 

東組屋台

この屋台に関する記録は、内部に「本、郷、町、」と小さくあるのみで、他に銘文などは見あたりません。

 

地元研究家の話によると、屋台は大正十年七月宇都宮市馬場町(個人所有)より、金二千円で購入したとのことでした。

 

宇都宮市旧本郷町に残る屋台箱に、弘化二年(1845)の年号があることから、この頃本郷町で作られたとみられ、典型的な宇都宮形屋台です。

 

かつて二荒山神社の菊水祭に繰り出された、多くの屋台の内の一台であります。

 

彫物は龍の他、魚類など水辺の動植物が多く、作者は作風の特徴から宇都宮の高田新吾と思われます。

 

唐破風の螺鈿(らでん)や彫物の金箔は今も光り輝き、当時の技術の高さが偲ばれます。

 

*彫物師高田新吾は礒辺義兵衛と並ぶ名工で、伝馬町屋台など多くの作品を残していますが、刻銘や墨書を残さずなぞの多い彫物師といえます。

 

地域情報紙かわち 第15号

(平成21年9月発行)より

 

 

北組南部天棚

(撮影 五月女秋穂氏)
(撮影 五月女秋穂氏)

河内地区には屋台と異なる二階作りで定置形の天棚が十一台現存しており、そのうちの一台です。

 

天棚は太陽と月を中心とする天の神々に風雨順調、五穀豊穣、村内安全、家内安全などを祈願する「天祭行事」を行うための大道具です。

 

当天棚に関する資料は以前火災に遭って焼失し、また天棚にも刻銘、年号などがなく詳しいことは分かりません。

桐の花に鳳凰、梅、梟のほか多くの彫物で飾られており、彫物師はこれらの特徴から鹿沼の神山政五郎、及び石塚吉明と思われます。

伝承によると彫物師は地元女性と問題を起こし、仕事なかばで次の仕事場の板戸へ行ってしまったので、仕方なく板戸まで彫物を持って行き、仕上げてもらったとのことです。

戦後四回ほど天祭行事が行われましたが、昭和五十四年を最後に今は行われていません。

平成十七年十月三十日に屋外に出して虫干しが行われ、この時調査をさせていただきました。

 

地域情報紙かわち 第16号

(平成21年11月発行)より

 

 

 

 

天王原屋台

(写真撮影 梶 務氏)
(写真撮影 梶 務氏)

天王原自治会は大正年間に西組から分かれて、自治会として独立したそうです。

 

天王原屋台は、この頃、当地の加藤清治氏、上組の湯沢長吉氏両大工が本業の合間を利用し、長年かけて奉仕的に作り上げ、腰周りの彫刻も両氏の作といわれます。

 

大正七年六月十四日、盛大におこなわれた屋台祭りの記念写真が、今も公民館に展示されており当時が偲ばれます。

 

屋根の龍や鶴の彫刻は、その後下田原下組の旧天棚の彫刻を購入して、取り付けられました。

作者は不明ですが、繊細でやはり名工の作と思われます。

 

古老の話では、当屋台は製作当時もっと大きかったが、道路が狭く引き回しが困難なため、長さを切りつめたとのことです。

今となっては残念との声も聞かれます。

 

平成十六年には車も作り替えられ、貴重な文化財は大切に保存され、また活用されています。

 

地域情報紙かわち 第17号

(平成22年1月発行)より

 

 

 

和久天棚

地元の伝承によると、天保年間(1830~)関東地方で続いた大飢饉の頃より、災害を防ぎ五穀豊穣を祈願して天祭行事が行われてきたといわれています。

 

初めの天棚についてはわかりませんが、現在の天棚は収納箱に「嘉永五年(1852)子七月天棚造之」の墨書があり、この頃作られたことが分かります。

 

また明治20年天棚修復の記録も明記されています。

このとき彩色も行われたと見られ、極彩色の彫物は今も光り輝いています。

彫物の種類も多く、二階柱隠しの昇り龍、降り龍を始め、唐獅子、鳳凰、孔雀、鯱の他、障子の腰には干支が彫られています。

 

作者は墨書銘に「大工 宇都宮大町 宗七」、「彫物師久我村(鹿沼)政五郎」とあり、政五郎は各地に作品を残す神山政五郎です。

 

明治20年に修復が行われ「彩色師 宇都宮 岡田又平」「塗師 直井安吉」の銘が確認されました。平成16年11月に組み立てられましたが、現在は解体して倉庫に収蔵されています。

 

地域情報紙かわち 第18号

(平成22年3月発行)より

 

 

古田天棚

古田天棚は平成六年八月、四十五年ぶりに組み立てられました。

この時の、飯岡善太氏(平成七年没)や他の方の話によりますと、古田には以前天棚がありましたが、明治初めの火災により焼失してしまい、其の後作られた天棚は貧弱でもの足りず、大正七年上河内の冬室から中古の天棚を購入したそうです。

名工の作ながら傷みがひどいため、古い天棚の部材も利用して大改造を行い、大正九年七月に盛大に天祭まつりが行われました。

 

正面一階の彫物(懸魚)には、「太平山麓トミタ住磯辺義兵工敬信工(中略)安政申七年三月二日生」とあり、屋台・天棚ではおなじみの名工の三十歳の作です。

 

彫物の題材は唐獅子牡丹・龍・花鳥などで、後部二階には古い天棚の彫物が取り付けてあります。

 

平成十七年六月に天棚格納庫が完成し、現在は組み立てたまま収納されています。

また、この時期に「天祭囃子の会」が復活し、活動しています。

 

地域情報紙かわち 第19号

(平成22年5月発行)より

 

 

申内(ざるうち)天棚

(写真提供 落合和男氏)
(写真提供 落合和男氏)

昭和六十三年七月、文化財調査委員等の研修会が旧河内町で開催され、県内から約二百名が集りました。

 

この時のテーマの一つとして「天棚」が取りあげられ、当申内の天棚を三十三年ぶりに組み立て展示いたしました。

永見東一氏、相良伊一氏、田崎熊重氏の三囃子方による天祭囃子が演奏され、当時の新聞にも大きく報道されました。

 

この研修会は、その後の旧宇都宮市や旧河内町の屋台・天棚調査に大きな影響を与えたと思います。

 

天棚の彫物は、牡丹に唐獅子・向拝柱隠しの龍・脇障子の松に鷹・高欄に這う龍など、名工の作と思われます。

組み立てに携わった地元の方々の話では、製作年や作者名を示す墨書は見当らなかったとのことですが、彫物などから、江戸時代末期の天保・弘化年代の可能性が高いと思います。

 

作者の意志か地元の希望か分かりませんが、すばらしい屋台や天棚でも無名のものは他にも多く見受けられます。

  

地域情報紙かわち 第20号

(平成22年7月発行)より

 

 

西組屋台

地元の伝承によると、西組には明治の初めころすでに屋台(一説では山車)があり、これは宇都宮から買ったと言われています。

 

旧屋台は太鼓場が狭く、囃子方が難儀をしたことなどから、昭和9年ころ地元の大工戸村由太郎氏によって、旧屋台の高欄と障子を使い現在の屋台が制作されました。

 

高欄及び障子は彩色で、金具には「宮」の文字があることから、旧屋台は江戸時代末期の作で、もと宇都宮市宮島町の屋台だった可能性があります。

 

現在の屋台は大きさは宇都宮形ですが、内車については鹿沼形となります。

 

彫物は昭和30年から31年にかけて下田原の彫物師・斉藤武男氏(平成7年5月 85歳没)によって製作され、彫物裏墨書に「当村下田原住人藤原朝臣源武之刻」とあります。

 

彫物の題材は、龍をはじめ唐獅子・鯉・亀・花鳥などです。

 

平成16年8月「ふるさと夏祭り」に繰り出されて以来、屋台祭りはしばらく行われていません。

 

地域情報紙かわち 第21号

(平成22年9月発行)より

 

 

甲部屋台

この屋台は、古文書等の記録がなく正確には分かりませんが、古老の話によると外部から購入したとのことでした。

やや小形で車が左右とも外に出ており(外車(そとぐるま))、車軸が前後中心より若干うしろに位置していることなどから、典型的な宇都宮形屋台といえます。

 

部材裏面墨書(ぶざいりめんぼくしょ)に「天保四年巳年六月吉日・大工常蔵」(1833)とありますが、製作当初の彫物(ほりもの)師名は分かりません。

太鼓場内墨書(たいこばないぼくしょ)には、明治3年に修理が行われた時の職人名と「礒辺敬信工(いそべけいしんこう)」の銘(めい)があり、彫物の一部は敬信が補刻(ほこく)を行っております。

 

このほかに、同時代の作と見られる名工敬信の作品が白沢地区には何例か見られます。

 

屋台の彫物は唐獅子牡丹、孔雀の他、正面左右の向(こう)拝柱(はいばしら)は丸彫(まるぼり)の龍、また障子の腰板(こしいた)には十二支の動物が彫られています。

 

唐獅子や龍の目は、当時珍しかったガラス玉を埋め込んだ「玉眼」で出来ており、地元の自慢の一つとなっています。

天保時代の屋台の特徴をほぼ残している貴重な屋台と思います。

 

地域情報紙かわち 第22号

(平成22年11月発行)より

 

 

下宝井天棚

当天棚彫物の裏面には「免之内邑(村)彫り物匠工(しょうこう)高田伊左衛門彫刻之(これ)・文政4年巳歳(みどし)(1821)11月吉日」とあり、このころ創建されたと思われます。

 

その後文久2年(1862)「天棚再建」(改造)の記録があり、この時期に多くの彫物の補刻と、彩色がされたと考えられます。

 

免の内村は現上河内地区にあり、彫物師高田伊左衛門は礒辺義兵衛2代目隆信(たかのぶ)の門人で、河内地区にも多くの作品を残しており、当地、稲荷神社の彫物にも「伊左衛門」の名があります。

彫物の種類も多く、波に龍・牡丹唐獅子を始め、梟(ふくろう)・山鵲(さんじゃく)・兎のほか、障子の腰板には十二支の彫物が彫られています。

 

文政4年創建の彫刻天棚としては、歴史的にも大変古い部類に属しています。

 

平成19年に天棚収蔵庫が再建され今はその中に解体して収納してあり、地区の人々による本祭りの前の天棚組み立ては前祭りの楽しみのひとつでもあります。

 

地域情報紙かわち 第23号

(平成23年1月発行)より

 

 

東下ヶ橋天棚

一般に見られる天棚の大きさは、間口が2~2.5mぐらいが普通ですが、当東下ヶ橋の天棚は3・14mで、奥行き、高さとも旧宇都宮地区を含めても最大級であります。

 

二階後部の羽(は)目込(こ)み板後面(うしろめん)には、天棚製作に関する世話人、年月、作者などが、明瞭に墨書されており、それによると製作年は文久2年12月(1862)慶応2年8月(1866)、大工梶(かじ)倉蔵(くらぞう)、彫物師礒辺(いそべ)義兵衛(ぎへえ)敬(けい)信(しん)そして野村幸吉(結城住)の銘があります。

 

一階二階ともに四方を重厚な彫物で飾られており、題材も龍・唐獅子・鶴の巣篭もり・花鳥など多く、特に一階正面の「玉堂(ぎょくどう)富貴(ふうき)の図」と銘文のある大きな彫物は、見ていて圧倒されます。

 

近隣集落で次々と屋台が作られ、当時道路条件が悪く屋台の引き難かった当地では、それに負けじと大きな天棚が作られたのではないでしょうか。

平成19年3月には格納庫も完成し、現在組み立てたまま格納されています。

 

地域情報紙かわち 第24号

(平成23年3月発行)より

 

 

上組天棚

これだけ科学の発達した時代でも、人間の力ではやはり自然災害は防ぎきれないことが、大地震によっても思い知らされます。

 

ましてや200年も前にあっては、ひたすら神仏に祈るのみでした。

 

人々は天棚を作り災害の起きぬよう、そして五穀豊穣、村内安全を太陽や月を中心とする「日天・月天」に供物を供えて祈ったのでした。

 

当天棚もその一つであります。

地元に残る記録では、昭和19年ころまではほとんど毎年天祭祭りが行われたそうですが、その後組立ても少なくなり、最近では平成20年に組み立てられ、お祭りが行われました。

 

彫り物裏には「文政4年巳歳(1822)5月吉日・後藤金重(かねしげ)(高田伊左衛門)」とあり、彫刻天棚として歴史的にも最も古い部類に属し、貴重な天棚と思います。

 

製作当初彫物は二階のみでしたが、彫物箱の年号などから、その後安政2年(1855)に天棚の改造と、一階部の彫物が補刻されたとみられます。

 

彫物師名はありませんが、特徴から宇都宮の高田新吾またはその一派と思われます。

彫物の題材は龍、唐獅子を始め松に鷹、ぶどうに木ねずみなど多彩であります。

 

地域情報紙かわち 第25号

(平成23年5月発行)より

 

 

白沢南屋台

河内地区に現存する6台の屋台のうち、最後となりましたが白沢南屋台です。

江戸時代末期近隣町村で屋台がつぎつぎと作られ、明治に入ると祭り気分を盛りあげる華やかな屋台ブームは、当地区においても訪れ、鹿沼や宇都宮より屋台が購入されました。

白沢南屋台も其のうちの1台であります。

 

記録や伝承によると、文政2年(1812)に鹿沼麻(あさ)苧(う)町で作られ、明治6年同町より購入しました。

と同時に初期製作彫物師礒辺初代義兵衛(ぎへえい)の3代目、おなじみの礒辺敬信(いそべけいしん)を頼み、2年の歳月をかけさらに豪華な彫物の補刻を行いました。その部分は白木となっており、容易に見分けることができます。

 

鹿沼屋台の中でも初期の作で、屋台の始まりとされる踊り屋台の特徴を残し、芸などが行われるときは、両側の脇障子が左右に開き、二本の向拝柱(こうはいばしら)がはずれる珍しい構造になっています。

 

また年代、作者の詳細な記録が残されている貴重な屋台であります。

次回の白沢屋台祭りは平成25年秋の予定だそうです。

 

地域情報紙かわち 第26号

(平成23年7月発行)より

 

 

立伏天棚

河内地区の西部、立伏地区の天棚が組み立てられ、久しぶりに「天祭まつり」が行なわれたのは、平成4年8月23日のことで、当時の新聞にも大きく報道されました。

 

当天棚は記録によりますと「文政十一歳(とし)(1828)丑七月四日、彫物師高田伊左衛門金重(いざえもんかねしげ)・門人石那田、荒牧源次」とあります。

 

一般的に天棚の屋根は一階二階ともに唐破風(からはふ)です。

 

当天棚の一階は千鳥破風(はふ)、また鬼板には太陽の彫物があり、ともに大変めずらしい天棚です。

他に龍や花鳥など多くの彫物で飾られています。

 

彫物師は宝井や上組の天棚を手がけた、上河内免の内の高田伊左衛門金重とその門人であります。

 

当彫物師は彫物の裏面などに墨書(ぼくしょ)にて多くの詳細な記録を残し、これまでに確認されている作品は12例ありますが、なぜか文政年間に集中しています。

記録によると、その後天保4年に天棚の修復と塗り替えが行われています。

 

地域情報紙かわち 第27号

(平成23年9月発行)より

 

 

釜根天棚

当天棚については古老の話によると、昭和22年または23年に組み立てられ、道路を通行止めにして約1週間天祭まつり(近くの川で身を清めて行う災害よけの神事)が行われたそうです。

 

その後平成5年8月1日に、調査と仮組み立てが行われ、この時私も参加しましたが、残念ながら年代・作者などの記録は見当たりませんでした。

詳しいことはわかりませんが、製作年代は作風や他の事例などから江戸時代末期と見られ、彫刻師については不明でした。

 

地元でも天棚について知る人は少なくなり、古文書などの資料が見つかることに期待したいと思います。

 

当天棚は一階部分の張り出しのない「総二階形」で、旧宇都宮市内では多く見られますが、河内地区で現存する天棚は2台のみで少なく、また多くの彫刻で飾られ、貴重な天棚と思われます。

 

彫刻の題材は龍を始め、牡丹に唐獅子・松の鶴・ぶどうに木ねずみのほか、花鳥など多くの彫物で飾られています。

 

地域情報紙かわち 第28号

(平成23年11月発行)より

 

 

田中天棚

平成7年8月6日、昭和6年の組み立て以来64年ぶりに、組立調査が行われました。

当天棚は釜根地区と同じ総二階形であります。

 

材料は一階が桧材、二階は欅(けやき)の木を使い、屋根や高蘭、その他随所にかざり金具をふんだんに使い、豪華な作りとなっています。

 

地元に残る古文書(請負書)によると、「天棚一社絵図面・・・の通り来る3月限り出来上がり候・・・ 安政五年二月(1853) 大工棟梁 臼井専次郎」とあります。

また柱柄(はしらほぞ)の墨書に「高延元年庚申(かのえさる)七月(1860)出来ス」とあり、この頃作られたことがわかります。

 

ところが、請負書にある彫物のうち、そのいくつかがありません。

 

古老のお話によると、なんらかの事情で残念ながら未完成のままで終わってしまったとのことでした。

完成していたらすばらしい天棚であったろうと推測されます。

 

現存する彫物は「松に日の出鶴(つる)、菊に錦鶏鳥(きんけいちょう)、梅に山(さん)鵠(じゃく)などですが、彫物師の名前は分かっていません。

 

地域情報紙かわち 第29号

(平成24年1月発行)より

 

 

下組天棚

当天棚は前面一階部が前に出ている、突き出し形白木彫刻天棚で、古老よりお聞きした話によると、「下組には文化文政年間ごろの天棚があったが、傷みがひどく江戸末期か明治の初めに新しく作りかえた。古い彫物の一部は後に天王原へ売った。」とのことでした。

 

近年では昭和25年と同43年に組み立て、天祭行事(祭り)が行われたそうですが、その後組み立ては行われていません。

平成5年8月13日に、彫物のみ公民館前に並べ虫干しが行われ、これを機会に彫物等の調査をさせて頂きました。

彫物には製作年号などの記録は見あたりませんでしたが、天棚製作記念に彫物師が残していったと言われる「天狗の面」があり、この裏面に「慶応三年十一月」の墨書が見つかり、これが天棚製作年と見られます。

 

作者について大工は分りませんが、彫物師は彫物裏面に小さく「大出」の刻銘があり、鹿沼の彫物師神山政五郎の一番弟子今市の大出常吉で、二人の合作の可能性が高いと思われます。

 

彫物の題材は波に龍、松に鷹をはじめ、梅、ぶどう、花鳥など多種にわたります。

 

地域情報紙かわち 第30号

(平成24年3月発行)より

 

 

旧部天棚(彫刻のみ)

(玉生家蔵)
(玉生家蔵)

その昔天災除けと五穀豊穣、そして村内安全などを祈願するために作られた天棚も、敗戦と共に神仏に頼る信仰心もうすれ、さらに気象科学の進歩とともにその用は終わり、倉庫に入ったまま傷んでしまった天棚は多くありました。

申内南部の旧部天棚もその一つで、以前古老より聞いた話によると、屋根や柱などの天棚本体は、傷みがひどいなどの理由から戦後に処分され、彫刻は地域の人に分けられて、個人の所有物となっているそうです。

後になって残念がる声も聞こえましたが、これも時代の流れかもしれません。

 

彫刻から推測すると、その種類大きさなど近隣地区の天棚に似ており、同江戸時代末期ごろの作りかと思われますが、年代作者名などの記録はなく詳しいことは分かりません。

一説によると「当天棚は元禄時代、有志の浄財により作られた」とも言われますが、事実とすると大変古く、他地区の天棚より百年ちかく遡ることになり、疑問が残ります。

 

現存する彫物は登り龍、下り龍、唐獅子、波にうさぎ、松に鶴など多種にわたり、すばらしい天棚であったと推測されます。

 

地域情報紙かわち 第31号

(平成24年5月発行)より

 

 

彫刻師と日光東照宮

彫刻屋台・天棚を保有するところでよく聞かれる言葉があります。

 

それは日光東照宮を作った彫刻師が、冬に下りてきて彫ったとか、日光の帰りに彫っていった、と言うことでした。

 

東照宮が造られたのは寛永13年(1636)、屋台・天棚はそれより約180年近く後になるので、本当とは思えなかったのです。

 

ところが、鹿沼の屋台箱より「日光五重塔彫物方棟(ほりものかたとう)梁(りょう)後藤周二正秀」の銘が発見され、東照宮に問い合わせた結果、五重塔は文政元年(1818)再建されており事実であることが判明したそうです。

その後の調査で河内地区屋台・天棚の彫物師に関しても彫物師の家の言い伝えとして、「東照宮の彫物を彫った」との話が幾つか確認され、「東照宮の彫物(補刻・修理)を彫った彫刻師が屋台・天棚を彫った」との人々の話は本当でした。

 

ところで、今話題の東京「スカイツリー」の耐震装置は五重塔の原理を応用しているとのことなので、日光五重塔内部(芯柱)が初公開されています。

内部だけでなく、外回りにある後藤周二正秀作の十二支の彫刻も、是非見てください。

 

地域情報紙かわち 第32号

(平成24年7月発行)より

 

 

天祭(行事)

高根沢町石末宿天祭(御来迎)
高根沢町石末宿天祭(御来迎)

この行事の始まりについて、一説によりますと江戸時代中期、現千葉県の人が来て、板戸、下ヶ橋、芦沼などへ「天念仏」として伝えていったと言われます。

 

その方法は近くの小高い山に地域の人々が登り、木や竹を切って棚を作り、しめなわで回りをかこい、5-6mの梵天を立て、棚にはお供えもち・酒・野菜などを供えて、願文(がんもん)を唱えながら天棚のまわりを何回も回ります。

風雨順調・五穀豊穣などを太陽にお祈りするもので、天明の大飢饉以降特にさかんになり、この方法は県北や茨城県では今も行われているそうです。

河内地区をはじめ県央では、いつ頃からか天棚は家形(いえがた)となり、屋台と同じように彫刻で飾られ豪華になりました。

現在見られる天棚による天祭行事も山で行われるのとほぼ同じです。

神式は「天祭」仏式は「天念仏」などと呼びますが、神仏混合が多いようです。

白装束(しろしょうぞく)の御行様(おんぎょうさま)による「御来迎(ごらいごう)」は、河内地区では長年行われていません。

高根沢では今でも毎年行われています。

 

科学の発達した現代でも、天災のない平穏な世の中であるよう、祈る思いは今も昔も同じようです。

 

地域情報紙かわち 第33号

(平成24年9月発行)より

 

 

天祭ほめことば

昇り龍
昇り龍

前回述べました天祭行事の中で、「天祭ほめことば」と言うのがあります。

これは近隣の若衆が来て天棚の前に立ち、天棚やお囃子、そしてその情景などを、節をつけて大声でほめたたえるのです。

 

河内地区では平成3年頃、2人の「天祭ほめことば」唱者(しょうしゃ)がいましたが、今ではすでにおりません。

その一人、立伏の大竹栄三郎氏(当時90歳)のほめことばを紹介して見ます。

 

「しばーらーくー、しばーらーくー、しばーらーくーとー、日光山(やま)は峰つづきー、高原山(やま)は吹き降ろしー、鬼怒川べりの小野郎(こやろう)がー、日光参りのか尺りがけー、ぴいひゃらどんどんと、さも賑やかさに引かされてー、ほめてゆかねば帰られぬー」

 

「まずは御拝柱(ごはいばしら)を眺むればー、登り龍には降(くだ)り龍、金ぶち銀ぶちぴかぴかとまことに恐ろしいー…中略…庭に立てたるガスアンドンを拝すればー、天下泰平、五穀豊穣と書かれしはー、高野山弘法大師のお筆やら、またはご当地青年のお筆やらー、お見事ぞー」

 

…これに対し地元青年による「返し言葉」と言うのがあります。

このように我々もお互いに相手を尊重しほめ合い、仲良く生きて行きたいものです。

 

地域情報紙かわち 第34号

(平成24年11月発行)より

 

 

終回

河内地区に現存する組み立て可能な屋台6基、天棚11基、及び彫物のみ1基と、これらに関する特徴と祭りのようすなどについて、述べてきました。

この他に西下ヶ橋に天棚、台岡本に屋台が以前あったことが分かっていますが、彫刻があったかどうかは不明です。

 

河内地区にはこれまで紹介してきましたように、歴史的にも大変古く貴重な屋台や天棚が多く保存されています。

また比較的新しい屋台など、その縮図を見ることができます。

 

災害の起こらぬよう、そして風雨順調、五穀豊穣、などを月や太陽に祈った天祭の役目は、気象科学の発達で終わったのかもしれません。

屋台祭りも娯楽の多様化などで昔ほどの賑わいはありませんが、地域の先人たちが大変なご苦労と意気込みで作り上げ、または購入した屋台や天棚を大切に保存すると同時に、いまこれらを活用し、地域おこしや人々の交流に役立てようとの動きが起きています。

さらに進展することを祈り、「河内地区の彫刻屋台と天棚」今回にて終わります。

 

お読み戴き有り難うございました。

 

地域情報紙かわち 第35号

(平成25年1月発行)より

 

(住吉 晴)

 

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