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河内地域のもう一つの物語り

河内地域のもう一つの物語り①

 

これまでにいろいろな広報などで歴史や伝説が紹介されていますので、これからはもう一つの地域の物語りをお伝えしたいと思います。

 

この時期、新緑に包まれ下ヶ橋の谷川にはバイカモが名のように梅の花に似た白い花を咲かせます。

 

奥州街道以前、宇都宮塙田筋を北に鎌倉街道(頼朝街道・義経街道)が下ヶ橋を通り、鬼怒川を渡河したと言われています。

 

義経が奥州藤原氏のもとにおりましたが、兄頼朝の挙兵を知り合流すべく「きつ川を打ち過ぎ下ヶ橋の宿について」と後に書かれた義経記にしるされています。

止宿したのが真言宗 沼生山(ぬまにゅうさん)養膳寺、この本尊(写真)が地蔵菩薩像です。

 

今回紹介するこの菩薩は、平成十二年盗難に遭い今は手を合わせることはできません。

縁起によりますと、子育安産、延命長寿の守り本尊として八百年近く地域を見守っていただいたことから、残念でなりません。

 

この際、台座は残りましたが、いくつかの新しい事実がわかりました。

 

小さな仏像(写真下)、透かし彫りの中五センチに満たないものが見つかりました。

また台座に文久二年宇都宮釈迦堂町大仏師 高田運平の名があり住職浄諭(じょうゆ)勧発(かんぱつ)の名で奉修の記録がありました。

 

この小さな菩薩像はせめてもの救いでした。

 

もっとも地蔵菩薩は、釈尊入滅後、弥勒菩薩の出現までの五十六億七干万年の仏のいない間、六道の世界を素足で様々な人々に法を説くためにあらわれたと言われます。

 

この地を離れても地蔵菩薩は今も、地域の幸福を護り続けていただいているものと信じています。

 

地元の地蔵講の皆様も守り続けています。

 

下の写真の小さな地蔵菩薩はこの中に入っています

地域情報紙かわち 第37号

(平成25年5月発行)より

河内地域のもう一つの物語り②

 

暑い日が続きます。

養膳寺跡 下ヶ橋城(居館)跡の話になります。

 

左図の上は、江戸時代のものと言われています。

地元には、寛文二年の御縄打帳(土地台帳)が残っており、この中に字名、地名が記されていますがこの絵図とほぼ同じものになります。

この前後から明治期までのものと思われます。

 

左図の中は明治期のもので、左図の下は昭和になってからのものです。

いずれにも養膳寺、下ヶ橋城跡の記録が残っています。

下ヶ橋城については詳細は分りませんが、戦国時代末期宇都宮氏の家臣下ヶ橋豊後守(ぶんごかみ)の居館で慶長年間廃城になったと言われており、今も土塁の一部が残っています。

 

養膳寺は、左図のように沼生山(ぬまにゅうさん)の名のいわれとなった沼が描かれています。

 

縁起によると「この地に霊泉あり玲瓏瑠璃(れいろうるり)の如く、これを拝すると大道能化の小さな金銅仏が現れた」と伝えられ、仏師運慶がこの金銅仏を胎内に納め、地蔵菩薩像が生まれたと伝えられています。

 

この図に寺跡・山門等も描かれています。

 

土地改良が終わり現状は変わっていますが、図の寺門の前から右に目をむけますと小さな三角形の『田』と書かれたところがあります。

どの地図にも残っています。

現在もこの土地が現存しています。

 

寛文二年御縄打帳の中に養膳寺の寺有地と思われるものがあわせて水田九反六畝 畑八反九畝二十七歩 屋敷六畝二十一歩の記録があります。

 

同帳に現東下ヶ橋の観音寺の寺有地も記載されており、これも貴重な資料になっております。

 

地域情報紙かわち 第38号

(平成25年7月発行)より

河内地域のもう一つの物語り③

 

稲田は、黄金色に輝いています。

河内地区の東を鬼怒川が流れていますが、明治期は西鬼怒川も、左図の様に水量も多く今とは異なっていました。

 

元和(げんな)六年(一六二○)宇都宮城主本多(ほんだ)正純(まさずみ)がこの西鬼怒川から取水して、旧河内町を経て今泉田川に合流する御用川を開削しました。

米・麦・用材など運搬、輸送に重要な役割を果たしてきました。

 

川岸には舟を上流まで引き上げるための綱道がありましたが、今はもうその道跡もありません。

 

さて今回のもう一つの物語は、旧東北線の御用川に架かる鉄橋跡(写真)の紹介です。

明治十九年、東北線は宇都宮から北に現在の東北新幹線とほぼ平行に北へ伸び現在の矢板につながっていました。

明治二十三年八月の暴風雨により数ヶ所の橋台が倒れ、しばらくの間不通になっていました。

東・西鬼怒川の二つの鉄橋も必要になることから、明治二十八年 東・西鬼怒川の合流する現在の鉄橋の路線に変更になりました。

 

子供のころ鬼怒川に遊ぶと、この橋のレンガの破片がたくさんあり、これを拾ってきては石と摺りあわせ赤い水をつくり遊んでいたものです。

 

ところで河内地域には何ヶ所かの旧東北線の跡が残ってはいますが、その中で最たるものがこの御用川に残る鉄橋跡の橋台です。

今も古田側・下ヶ橋側の橋台はほとんど姿を変えていません。

 

古田駅跡やこの橋台を見ていると、あの暴風雨による増水がなければ、もしかするとこの近辺の様子はまるで違っていたかも知れません。

 

 

 

旧東北線鉄橋跡古田側

 

旧東北線鉄橋跡下ヶ橋側

 


地域情報紙かわち 第39号

(平成25年9月発行)より

河内地域のもう一つの物語り④

 

今回は、二枚の西下ヶ橋 東下ヶ橋の古い絵地図です。

 

ほぼ同時期のものと思われ、二枚揃って紹介されるのは初めてになります。

 

西鬼怒川の流れが荒々しく見えます。

御用川、九郷半川はこの上流部から分水されました。

鬼怒川は、私達の生活に大きくかかわっての今日があります。

享保年間の五十里洪水がもたらした被害は甚大な物でした。

この時の激流が川幅・水量ともに拡大され鬼怒川以上の河川になった時期もあると言われます。

この時、郷間家の県指定天然記念物になっている三又カヤに近在の十数人の方が登り難を逃れたと伝えられています。

 

鬼怒川の歴史や物語りは書きつくせるものではありません。

確かなことは幾百、幾干年をかけて怒れる川が上流の山々の豊かな土を堆積させ豊穣な沖積土(ちゅうせきど)地帯を育んでくれたことです。

その清流は実り豊かな作物を育て、魚は一年中貴重な蛋白源となりました。

また舟運としても重要な役割をにないました。

 

鬼怒川の名が記される様になったのは明治初期と言われそれ以前は衣川・絹河と古い書類に残っているそうです。

 

※前回掲載の旧東北線鉄橋跡を見学の際は、充分足下に気をつけてください。

 

地域情報紙かわち 第40号

(平成25年11月発行)より

河内地域のもう一つの物語り⑤

 

新年おめでとうございます。

今回は、東下ヶ橋の将門の首塚と地区内にある野仏、碑塔類の物語りです。

平将門は、延喜三年(一〇八二年)下総の豪族の家に生まれ、十六才で京に上り十三年を経て故郷に帰りました。

父良持(よしもち)が残した莫大な遺領は横領され、これがもとで一族同志の烈しい争いが内乱(天慶(てんぎょう)の乱・将門の乱)にまで及び、朝廷の命(めい)を受けた、平貞盛(さだもり)・藤原秀郷(ひでさと)により、下総(しもうさの)国(くに)岩井で天慶三年二月、三十八才で命を焉(お)えました。

死後、地方の豪族でありながら常に農民の味方として、人望が厚かったことが将門様として親しまれ憐れむ人多く、関東一円には塚や遺跡が多く見られます。

 

ここの碑は、縁故の人・慕う人が後に祀ったものと思われます。

 

(逆面の故郷間千代雄(ごうまちよお)先生書の碑文より)この首塚のある白馬(はくば)神社境内周辺に、馬頭観音、勝善神(しょうぜんしん)等十二基が見られます。

特に馬頭観世音は大きく見事です。

 

ところで、両下ヶ橋には馬の供養に関するもの十三基、日待ち信仰に関するもの二基、地蔵信仰に関するもの三基、他三日月信仰・宝篋印塔(ほうきょういんとう)・題目塔(だいもくとう)・百万遍(ひゃくまんべん)信仰・道標塔(どうひょうとう)に関するもの等あわせて四十基が確認されています。

 

江戸中期から、明治大正期のものが多く、神社境内等に祀られているのが主です。

 

一部、野のあぜ道や集落のはずれに勝善神が見られます。

 

長い信仰の中で今日まで守られてきたもので、今も続けられている信仰もあります。

 

昔の人を偲び、野仏、碑塔類に想いを寄せて歩いてみてはいかがでしょうか。

 

将門の首塚

 

馬頭観音

 


地域情報紙かわち 第41号

(平成26年1月発行)より

河内地域のもう一つの物語り⑥

 

野仏・碑塔の続きです。

この地域で多いのは、馬の祈願供養に関するものです。

馬頭観音、馬力神等がその例ですが「勝善神(しょうぜんしん)」について紹介します。

かつて馬は農耕、荷役馬として大事にされ、農家の母屋には、馬とともに暮らす姿がどこにでも見られました。

 

この馬の健康や追善供養のために建立されたものです。

 

謂れは、都を追われた九尾の狐が荒川近くの大槻のケヤキの大木にこもっていることがわかり、都から命を受け「勝善親王」が見上げる様な大木に矢を放ちましたがかなわず、この木を倒そうと何度も切り込みましたがもとに戻ってしまいます。

一心に祈るとこの切り屑を燃やしてしまえばよいと言われ倒すことはできましたが九尾の狐に逃げられてしまいました。

 

親王はその責を負って自刃、愛馬も死んだことから、村人達がこれを憐(あわれ)み神社を建立したと言われます。

それが矢板「生駒神社」の勝善様・蒼前(そうぜん)様につながるものです。

一月二十八日この神社には愛馬とともにこのお札と笹の葉をもとめるため賑わったそうです※。

もう一つ蒼前様、勝善様は意は同じですが、蒼前は、馬忩馬前(そうぜん)につながり、芦毛四百の馬をいい、この馬は七馬忩八百といい八歳になると白馬になるそうです。

勝善神は明治期のものが多く大正・昭和時代のものもあります。

明治期に多いのは廃仏毀釈によるものと言われています。

 

 

 

※お札は馬屋の柱にこれを張り笹の葉は持ち帰りきざんで馬に食べさせました。

 

 


地域情報紙かわち 第42号

(平成26年3月発行)より

河内地域のもう一つの物語り⑦

 

地域を紹介させていただくことは難しいものです。

いつもそこに住む一人として書かせていただいております。

 

今回は,ご存知の方が多いと思います。

 

地域の中から生活の様の変化とともに,消えてゆくものがたくさんあります。

その中から,灰小屋・味噌蔵です。

ハイゴヤ・ミソビヤなどと呼んでいました。

かつて農家の住まいには茅葺屋根が多く,木造のため火の始末は大事なことでした。

竈の火いろりの火の始末は,母屋から離れたこの小屋(下の写真)に処分しました。

 

この草木灰は,貴重な肥料にもなりました。

 

一坪(3.3平方メートル)のものですが,今でもいくつか家に残っています。

コンクリートでできていますので古いものではありません。

 

次の写真は「味噌蔵」です。かつて味噌は自家製がほとんどでした。

 

明治四十三年十二月建立とあり百年を経過しています。

 

三坪程,畳で六畳の小さな建物です。

仕込んでは寝かせ,漬物・梅干などは土間のこの蔵で保存していたものです。

 

今も近くに行きますと,味噌の香りがし,中に入りますと昔の四斗樽・三斗樽など箍が乾燥してゆるんで無造作に積んであります。

 

何十年も使われた自然石の漬物の重石などが積まれています。

 

そう言えば,子どものころこの時期,筍の皮のやわらかいものを二つ折りにして,中に梅干や紫蘇をはさみ,写真のように口の中に入れて,酸味を楽しみ,皮が赤くなるのを自慢しあったものです。

 

年配の方に伺うと,子どもの頃の思い出に残っていますが,名前を何と呼んだか解りませんでした。

 

地域情報紙かわち 第43号

(平成26年5月発行)より

河内地域のもう一つの物語り⑧

 

祭りが村から消えてゆく。

 

「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日

 ドンドンヒャララ ドンヒャララ

 ドンドンヒャララ ドンヒャララ」

 朝から聞こえる笛・太鼓」

 

今はなつかしい歌です。

 

これまで、地域の祭りや信仰、野仏(のぼとけ)等を紹介さて頂きましたが到底書きつくせるものではありません。

 

河内町の時に調査した「河内町の年中行事」によりますと、正月の行事に始まり年末まで五十に近い行事や祭りが紹介されています。

 

歌のようにそれぞれの地域に鎮守の森があり、いくつかの社もあります。

 

素朴な信仰もありあわせて人々は地域の豊かなることを願い、豊かなることに感謝します。

それが祭になります。

 

地域の人達が一同に介し祭りにあわせ幾日も準備するものもあれば、親類が一同に会して祝い、願い事が成就したことに感謝すると同時に新たな願いをする日でもあります。

この「ハレ」の日には特別な食事を用意します。

それが餅や赤飯でもあります。

今日は「ケ」の食、普通の食になっていますが、神に供え、ともに喜びをわかちあいながら食べます。

 

十九夜の祭りの日、持ち寄った材料で「うどん」を打ち、この日だけは好きなだけ食べられたという話も残っています。

正月には切り出してきた松の枝を飾り年神(としがみ)を迎えます。

田の仕事、山の仕事の始まりにはその神々に手を合わせます。

五月の節句には「しょうぶ」湯に入り、「しょうぶ」を軒先に挿します。

事始(ことはじ)め・事仕舞(ことじま)いの日には「ダイマナコ」と称し目籠(めかご)を長いさおの先に付け屋根に押し立てます。

注連縄(しめなわ)を用意したり藁(わら)の苞(つと)をつくり供え物を用意します。

 

祭りが村から消えてゆく。

 

人はどこに住んでも心のふるさとを持っています。

 

四季の変化や実りへの感謝は、祭りや行事を通して人の和をつくり地域の豊かさにつながっていたのかもしれません。

 

鎮守の森

 

藁苞に赤飯 しみつかれ 奉納

 


地域情報紙かわち 第44号

(平成26年7月発行)より

河内地域のもう一つの物語り⑨

 

「青蜩(ひぐらし)のあかとき少し

 鳴く山に

 ゆふべは千の鈴振るごとし」

 

河内生涯学習センターの前庭にこの歌碑があります。

 

河内の物語りに紹介せずにはおられない,東下ケ橋(ひがしさげはし)の郷間儀一郎(ごうまぎいちろう)先生晩年の歌になります。

 

先生は明治三十九年現在の東下ケ橋に生まれ大正九年宇都宮農学校に入学,このころから文芸に親しみ卒業後栃木師範学校に入学,卒業と同時に現白沢小学校に赴任,さらに師範学校専攻科で,国語・歴史・図画を学びました。

 

昭和九年 清水比庵(しみずひあん)先生との出会いが作歌に精進することとなりました。

 

昭和十二年絹島小学校で後の江連白潮(えづれはくちょう)先生との出会いにつながります。

 

昭和二十一年歌集「木に登る魚」が刊行されます。

 

この間,各種村役・社会教育委員等とし活躍されます。

 

もう一つ昭和三十一年古里中学校校歌

 

「雄々しさは 雄々しさは 山なみ 幾重 男体の」

 

あの歌が生まれます。

 

この年,筆者は中学校に在学中でした。

発表会の日の様が頭に残っています。

 

また,先生を師として近郷の農家の婦人の方々が学び集うようになりました。

 

昭和三十五年ごろ農作業のかたわら,日々のつらさや生活の様を先生のもとで学ぶ場となりました。

 

このことが,今日の文化活動の原点になったのではないかと思います。

 

当時,下野短歌(窓日(そうじつ))へ入社し,初めて河内支社が生まれました。

 

歌集「木に登る魚」には昭和二十年までの歌が載っていますが,この中で,このころの日々の教育者としてのこと,農の生活も含めて詠まれています。

 

書の中で,短歌の間に,短い文章がいくつも書かれています。

 

何とも書きあらわすことの出来ない程にじみ出る様な思いが綴られています。

 

歌集「木に登る魚」・歌集「千鈴(せんれい)」から書かせていただきました。

 

郷間儀一郎先生

 

歌集「木に登る魚」

 


地域情報紙かわち 第45号

(平成26年9月発行)より

河内地域のもう一つの物語り⑩

 

鬼怒川は、豊かな台地を育んでくれる偉大な川です。

時には荒れくるう時もあります。

さらに川は舟運を通じ物資を運ぶ交易の役をも果たしました。

 

豊かな水は、生活の中まで川とともに生きてきました。

朝に街道沿いの川で顔を洗い、夜は川の水を汲み生活の水ともなりました。

この水がきれいな砂を運んでくれます。

水底にはこの砂が輝いていました。

夕方農作業を終えた馬もこの水で体を洗います。

水の勢いは水車を廻し生活の中でかかせない力になります。

 

もっと大事なことは、この川に育つアユ・ナマズ・ウナギ・フナ・コイ・ドジョウ等多くの魚です。

西鬼怒の水は用水を経て、点在する田につながります。

 

ドジョウやフナ等多くの魚は、この田で繁殖するものが多いのです。

 

田に「ウケ」をかけ、川に行っては「手探り」「石ブチ」等で子どものころから漁法を覚えます。

この他に「釣り」「サゲ針」「セッカ」「ヤナ」「引っ掛け」等様々ですが禁止されたものも多く十二種類程が知られています。

今日は、今も残っている資料を紹介します。

これは竹で「バカウケ」と呼んでいました。

 

竹と板で作られたこのウケに練餌(ねりえ)の団子を指し、流れの穏やかな所にしかけます。

アギをくぐって入る小魚は種類も多く、あげるとジャージャーと音がする程だったそうです。

 

この小魚は塩水で茹でて乾燥し煮干になります。

 

冬場の貴重な蛋白源となります。

 

次は「エビ」の掬(すく)い網です。

砂や小砂利の多い川に藻場(もば)がたくさんあります。

ここに住む「ヌカエビ」等を掬います。

今でも使えますが「エビ」はほとんどいません。

 

大区画の農地の整備事業も終わりました。

同時に自然環境を守る事業が取り込まれ、魚が戻っています。

急に増えたものの一つに「マシジミ」がいます。

昔は食用にされましたが今でも小さな川でもよく見ることができます。

川を覗いてみて下さい。

 

宇都宮大学民族研究会 「下ケ橋の民族」より

農村学会誌 宇都宮大学「農村部における魚とりの変遷過程」より

 

エビ掬い網

 

バカウケ

 

マシジミ

 


地域情報紙かわち 第46号

(平成26年11月発行)より

河内地域のもう一つの物語り⑪

 

新年あけましておめでとうございます。

 

今回は『初午』についてです。

旧暦2月の最初の午の日を初午といいます。

 

稲荷神のお祭りで五穀豊穣・商売繁昌を祈願するものです。

稲荷の字が示すように、イナニ、イネナリの転化したものと考えられています。

屋敷神として稲荷神を祭祀している例が多く、今でも祭りが残されている地域もあります。

 

この日、下の写真の様に、祭旗(まつりはた)に「正一位○○稲荷大明神」と書いて、赤飯・しもつかれを『わらつと』に入れ供え祈願するものです。

 

私どもの地域では、集落の中央に橋本稲荷社があります。

 

この日は、当番の人が自家製のしもつかれやもちを、参拝してくれた方々に感謝の意で配ります。

(ちなみに今年は二月十一日が祭礼日です。)

 

しもつかれは今では食品売場に並びますがやはり自家製のものがおいしいのです。

 

この時期、寒さの中で保存された大根は甘味が多く、鮭の頭・人参・油揚げ・節分で使った大豆・さつま揚げ等を大きな鍋で煮込みます。

酒かすも入り、一軒一軒味が違います。

七軒のしもつかれを食べるとその年、中気にならないと言われています。

 

ところでこの時に大根や人参をおろすのが『鬼おろし』です。

左の写真の鬼おろしはもう何十年も使っています。

太い大根でもおろしやすく、大根・人参がやや粗く、味のしみ込みがいいものです。

 

この時、大根をおろすと『ガリガリ』と音がします。

この地域では、十一月の『オクニチ』の日に大根と酢じめのサンマだけの料理『ガリガリ』があります。

 

三枚におろしたサンマと鬼おろしでおろした大根だけの料理ですがあまり知られていません。

 

ぜひ二月二十一日橋本稲荷大明神の祭礼に参加して下さい。

 

(参考資料 栃木県の年中行事)

 

地域情報紙かわち 第47号

(平成27年1月発行)より

河内地域のもう一つの物語り⑫

 

今回で最後になります。

 

これまでこのコーナーで紹介した内容は、この地域どこでも見られたもの、あるいは地域で行われた行事でした。

 

これらは『河内町誌』にはほとんど紹介されています。

もう一つの物語りは、身近にあるものや、毎日の生活の中で使われているもの、あるいは道端に咲く花・路傍のかたわらにある石仏・小さな社などに注目してきました。

河内地域は鬼怒川・山田川・御用川等、豊かな水に恵まれています。

この川にも貴重な魚・失われて行く植物もあります。

 

たまたま、河内北部地域は、土地改良に伴う自然環境整備事業のなかで宇都宮大学の先生方、県や市の力で植物・魚・鳥・水田や用水の昆虫等も調べられています。

その記録の多さに感謝しております。

 

西下ヶ橋(にしさげはし)地区では、ワークショップを何度も重ねています。

このなかでは、地域にある最も美しい場所・特技を持った人の紹介にもつながります。

おまんじゅうづくりの上手な人、正月飾りの得意な人・コンニャクづくりの上手な人もおります。

すでに選ばれた人が、さまざまな場面で活躍しています。

 

もう一つの物語りの最後は、自治会や子供会、河内地区に興味を持ったグループの人達で近くをもう一度見つめ

ていただけると新しい発見があるかもしれません。

 

絵の得意な人、写真の上手な人に記録をお願いし、年配の方に昔の物語りや歴史の話を聞き、一枚の紙にまとめていただければと思っております。

 

これらがもう一つの最後のお願いになります。

ありがとうございました。

 

地域情報紙かわち 第48号

(平成27年3月発行)より

加藤 幸雄

 

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