昨年の9月から五回に亘り、五月女勝正様に寄稿して頂いた、「子供の可能性を伸ばす肝所」も最終回を向かえ、今春から新しく、まちづくり協議会事務局長の増渕昭氏に、みなさまの住んでいる地域の昔話や歴史的な背景を、元行政マンの知識と経験を生かし、寄稿して頂くことになりました。
前号までご協力を頂きました、五月女様には心より慰謝申し上げます。
歴史編(その1)
☆ 国の合併の歴史
河内地区も平成28年は宇都宮市になって10周年と成り各種の記念事業を開催しました。その河内地区の合併の歴史は大きく3回有り、古里村や田原村が誕生した「明治の大合併」、河内村の誕生した「昭和の大合併」そして今回の「平成の大合併」です。
「明治」「昭和」の合併には、ハッキリした目標設定が指示されましたが、平成の合併では「基礎自治体である市町村の行財政基盤を強化する」という目標設定が曖昧で各自治体の判断に委ねられたものでした。
1、明治の大合併
明治22(1889)年、近代的地方自治制度である「市制町村制」の施行に伴い、71,314有った町村数が15,859となりました。
この大合併により、それまで江戸時代から引き継がれてきた自然集落規模(大字・例えば下岡本村)の町村が、行政上の目的(教育、徴税、土木、救済、戸籍の事務処理等)に合った規模に改変されました。この時代には合併の町村単位の規模は、約300~500戸が標準とされました。
2、昭和の大合併
戦後、新制中学校の設置管理、市町村消防や自治体警察の創設の事務、社会福祉、保健衛生関係などの市町村の事務とされました。これら行政事務の能率的処理のために、市町村規模の合理化が必要とされ、昭和28(1953)年10月から昭和36(1961)年6月までに、市町村数は9,868から3,472と約3分の1になりました。
この時代には、新制中学1校を設置管理していくために必要とされた約8,000人の人口を一つの目安とされ、昭和28(1953)年の町村合併促進法、昭和31(1956)年の新市町村建設促進法の制定により進展しました。
平成の大合併は次号に続きます。
まちづくり情報紙かわち 第61号
(平成30年1月発行)より
☆ 平成の大合併
手厚い財政支援を目的とした[合併特例法(のちに合併新法)]により、平成19年3月31日に河内町が宇都宮市に編入合併しました。
遡ること昭和40年[合併特例法]施行、その後延長・改正を経て、平成11年に多くの課題・障害があり、それを乗りこえる措置とデットラインが平成17年と新たに決められる。しかしながら中々進展に至らず、同年4月[合併特例法]に代わる[合併新法]発令しました。
それを受け、宇都宮市・河内町・上河内町の合併が望ましいとして新生、宇都宮市として生まれ変わりました。ちなみに河内町として地名が現存するのは茨城県に1か所のみになっています。
☆ 栃木誕生の秘話
6月15日に県誕生記念行事があります。
江戸時代が終焉、慶応4年(明治元年)7月江戸が東京へ。しかし新政府の薩長方(東征軍)と旧幕府軍・尊攘激派との間で戊辰戦争勃発。この地では徹底抗戦の会津藩は南下し、東征軍が宇都宮の軍事的拠点と考え、北上。それぞれ下野宇都宮へ。
黒羽(一万八千石)大田原(一万一千石)壬生(三万石)足利(一万一千石)藩は新政府寄り、宇都宮藩(七万七千石)は新政府とも旧幕府軍ともつかない姿勢だった。宇都宮戦争では東征軍が攻め旧幕府軍が惨敗した。
その後明治2年に藩籍奉還で宇都宮藩や日光県・真岡県・他各藩に。
明治4年廃藩置県により宇都宮藩が宇都宮県へ、その時現在の県南地域は「栃木県」とな
りました。新政府の意向で初代栃木県令に鍋島貞幹が着任、ただ宇都宮県の県令はいなく大参事が代行した。
その後、上記の背景もあり、明治6年に宇都宮県を廃し栃木県の管轄に組み入れた。
ちなみに栃木という名は神明宮に千木が10本あり「十の千木」~「トウの千木」~「トチキ」という説があります。
これが前回掲載の明治の大合併です。短期間の地方行政移行が行われました。
画像:栃木県の成立図
地域情報紙かわち 第62号
(平成30年4月発行)より
☆古里村・田原村の誕生
国は県の合併が完了したのを皮切りに、「明治の大合併」を行い、旧河内町の前身である古里村・田原村が1889年(明治22年)誕生しました。
【全国に7万強(71,314)】あった町村が1万6千弱(15,859)に成った。
県内では26町145村計171町村が誕生した。その後の県の経過を見ますと、約65年間(昭和28年9月)市町村数にほとんど変化無し・河内村の誕生した昭和の合併により60市町村となり、昭和45年県内49市町村になったようです。今回の平成の合併まで約35年間県内の市町村数に変動が無かったことになります。
旧河内町の前身となる古里村・田原村の誕生経過や村名は私が知る範囲では、古里村の場合は「卯の花の咲く「こさと」を「ふるさと」と読むことにして「古里村」としたようです。田原村の場合は「草薙の剣で魚を取ろうとした際、貝殻石を俵につめて塚とした日本武尊伝説」や「日光山に来たとき俵の藤太藤原の秀郷が当地に係った藤原秀郷伝説」より由来したと推測しています。
☆古里村の誕生経過(その1 まぼろしの岡本村)
明治21年(1888)4月25日町村制の公布、白沢宿外7ケ村【(下岡本村・中岡本村・岡本新田村・白沢宿・下ヶ橋村・長峰新田村・芦沼村(その後小倉村に)・上田村(その後中里村に)】を管轄する役場があった。
その後県から河内郡白沢宿など7ケ村(岡本村・中岡本村・岡本新田村・白沢宿・下ケ橋村・長峰新田村・海道新田村)の区域の諮問があり、明治18年以来団結の習慣や地形上
より、これを見るも御諮問案の通り、いささかも故障ない。
新制町村役場位置の儀は少し北方に偏するも人家密接し且つ万事便宜に適するをもって、従来通り白沢宿に設置致し度き旨確答する。(栃木県河内郡長へ)
明治21年(1888)9月21日地区内の村名など概況報告で、下岡本村・中岡本村・岡本新田村等は昔一村にして岡本村と称せしことあり。・白沢宿は上岡本村と明治8年合併し
て白沢宿と総称す。ことなどから、命名‐新村の名称は「岡本村」と称するを可とする。役場位置‐新制の役場は、従来の如く白沢宿に置くを可とす。(明治21年10月知事の認可により岡本村誕生)
名称 | 下岡本村 | 中岡本村 | 岡本新田村 | 白沢宿 | 下ケ橋村 | 長峰新田村 | 海道新田村 |
戸数519 | 113 | 114 | 40 | 133 | 13 | 69 | 37 |
人口
3,640 |
717 | 809 | 233 | 851 | 116 | 594 | 320 |
まちづくり情報紙かわち第63号
(平成30年7月発行)より
☆古里村の誕生経過 (その二 岡本村~古里村)
明治二十一年(1888)に岡本村から古里村になったが、当初「岡本村」を海道新田村に編入との話があった。しかし川俣村の方が岡本村より地所が入り込んでいるとのことで川俣村と合併する旨が海道新田村から同年十月に町村役場へ書簡提出との話もあった。
一方十一月、「岡本村」の名称に抵抗感を持つ村人から白沢村に改称の案が村惣代から白沢宿の村戸長にだされた。しかし異論があり、旧名と関係の無い名称がよいという見解が多く、それぞれ名称案がだされた。
その名称候補として、睦村・旭村・晃川村・大緑村・古里村・平村・桑園村*・滑治村・自治村・喜世村・広丘村・王織村・清総村・総元村の十四村名が挙がった。
*(桑島村の考案には、当時白沢を中心として養蚕が盛んにであったことが考えられる)
それらを選考して、睦村(むつみ)・旭村(あさひ)・晃川村(てるかわ)・古里村(こさと)・桑園村(くわぞの)五つに絞られ、その後、投票と話し合いの結果、前号記載のように“卯の花の咲く”「こさと」を「ふるさと」と読むことにして「古里村」とまとまった。
そもそも県知事より岡本村の御命名儀諮問あり、それに対し同年十一月三日、古里村(ふるさと)と決定した旨の上申書を白沢宿などの村惣代より白沢宿村戸長に提出された。そのとき、街道新田村の儀については合併しないで、下岡本村・中岡本村・岡本新田村・白沢宿・下ケ橋村・長嶺新田村の六か村にて合併で決定した。
十一月五日、古里村(ふるさとむら)の御命名を白沢宿村戸長から県河内郡長に新村名として上申され、翌年の明治二十二年(1889)四月一日、正式に『古里村』として発足する。
☆田原村の誕生経過 (岩本村~田原村)
明治二十一年(1888)四月二十五日町村制の公布により、岩本村外十七か村から下田原村・上田原村・大塚新田村・宝井村・相野沢新田村・古田村・逆面村・叶谷村・立伏村が分離する。
田原村発足の際,岩本村から分離して、一村を作ることで地区民の話がまとまっていたようですので、古里村のような村名や地区との大きな曲折はなかったと見られます。
古里村と同様な手続き経過により明治二十二年(1889)四月一日正式に『田原村』として発足する。
まちづくり情報紙かわち第64号
(平成30年10月発行)より
☆河内村の誕生(その1)
前号掲載の[明治の合併]で「古里村」「田原村」が誕生。
その時、県内では26町145村、計171町村でした。
その後65年間も栃木県内の市町村数にほとんど変化が無かった。
昭和30年に[昭和の大合併]で「古里村」「田原村」が合併し河内村が誕生した。
その時、村の人口が13,586人・2,156戸 世帯人員平均6.3人でした。
それにより県内では60市町村となりました。
その後昭和45年県内市町村の数は49となり、[平成の大合併]で、現在25市町となりました。
[昭和の合併]の背景にあるのは地方財政再建法があります。
全国34府県が赤字で職員の昇給が出来ず自治体経営がピンチとなりその法律が準備された。
それにより9,868あった市町村が3,472と約3分の1に成ったようです。
当時の新聞では「良いのや、悪いのや分からないうちに合併になってしまった」などの声がささやかれていま
した。
また、「河内村」の誕生にも、村の名前をつけるのに大変なエネルギーを使ったようです。
両村とも、村名に伝統と歴史を有し、いずれかの村名を使用するにしても、住民に対する意見の相違が生
まれ、円満を欠き合体合併の趣旨に添わないとのことから、古里村田原村合併促進協議会が発足しました。
それと、河内郡の名称は今後町村合併が促進され、完了の暁には河内郡の名前が無くなるのではないかという
見地から、「河内郡の名前は廃止されても河内の名称として存続させたい」との意見も多数ありました。
また、古来当町域は、宇都宮より見て鬼怒川の河の内の愛称でよばれており新しい村名を「河内村」と選
定したようです。
古里村役場
田原村役場
さて、昭和30年当時をふりかえってみて、皆さん一人ひとりが歴史の証人であり思い出も数多くあると思います。
昭和31年(1956年)7月国の経済白書では「もはや戦後ではない」の有名なキャッチフレーズでしたが、その当時中学生だった私の周りでは、弁当の時間、新聞紙で弁当を隠すように食べていた旧友もおりました。
また、テレビの出現で力道山の空手チョップ・大相撲中継などに至るまで数年かかったが、その後「神武景気」という名前がついたほどでした。
今日でも国の発表と国民生活とのずれを感じるのは、私だけでしょうか。
まちづくり情報紙かわち第65号
(平成31年1月発行)より
☆ 河内村の誕生(その2)
第一次合併県試案に古里村と田原村の両村の置かれた現況を踏まえ、田原村は迅速な推進を積極的に取り組んだ姿勢、古里村は高崎製紙日光工場(現王子マテリア)などからの法人から得られる財政力を踏まえた単独自治団体として運営出来るものと思っていたと感じられる動きを掲載します。
*昭和28年9月「町村合併促進法」が公布されたことにより、県の第一次試案として古里村・田原村・羽黒村・絹島村・豊郷村の五箇村合併案が発表された。
(古里村)昭和29年2月28日開会の村議会で村民間の意思表示部不明との理由で態度保留となる。
(田原村)同年4月6日合併促進準備委員会で基本的態度を検討することとした。
(田原村)同年4月12日下館市・渋川市を視察する。
(田原村)同年4月26日瑞穂野村・平石村を視察する。
(田原村)同年5月6日・羽黒村・絹鳥村の代表意見交換する。
同年5月5日県の第二次試案として古里村・田原村・羽黒村・絹島村の四箇村が発表される。
(古里村)同年5月5日あくまで単独運営を確認、その際単独が困難の場合は、宇都宮市との合併をも考慮しなければならないとの線もでた。
(古里村)同年5月12日議員・地区代表・各種団体代表・学識経験者会議開催して次の3点を決めた。
1 会議出席団体の中から64名で合同協議会を編成する。
2 県試案に対して態度を暫く保留する。
3 四箇村合併、宇都宮市との合併等につき負担、財政、農地の状況調査を行い、広く民意を聴く。
同年5月21日田原村長が古里村長に両村合併の申し入れをする。
(古里村)同年5月23日緊急協議会を開催して次の2点を決めた。
1 田原村との合併について調査をする。
2 田植え時期終了後地区座談会を催し民意を聴く。
同年5月28日田原村合同審議会が二箇村を正式に申し入れをした。
(古里村)同年7月1日合同協議会を合併対策協議会に改称、規約・組織を決定する。
(古里村)同年8月2日合同協議会で次の3点を決めた。
1 県試案に対して態度を暫く保留する。
2 宇都宮市との合併については、編入合併となるから急がず周囲の事情を研究する。
3 田原村との合併については、単独運営が望めないなら二箇村の線で進む。
その後の経過を次号に掲載します。
シルバー人材センター(旧河内村役場跡地)
天王原公園(旧田原村役場跡地)
まちづくり情報紙かわち第66号
(平成31年4月発行)より
☆ 河内]村の誕生(その3)
第二次合併県試案に古里村と田原村の両村が取り組んだ姿勢を前号に続き掲載します。
昭和29年8月5日古里村・田原村・羽黒村・絹島村の四箇村の村長・議長が県地方課で会議、古里村・田原村の二箇村合体合併案検討を正式に発表する。
(田原村)同年8月17日から9日間合併に関する説明会を行い、若干隣接羽黒村・絹島村との合併や宇都宮市との合併という意見もあったが、古里村との合併が適当との結果となった。
(田原村)同年8月29日説明会結果に基づき古里村に合併申し入れする。
(古里村)同年9月5,6,7日(3日間)合併に関する説明会を21地区で開催、17地区が田原村との合併賛成となる。
(古里村)同年12月1日合併対策協議会で田原村との合併、役場の位置は当時の古里村役場など決定する。
(田原村)同年12月7日古里村から二箇村合併の回答有り。
同年12月14日古里・田原両村合併対策協議会を古里村役場で開催し、合併準備会規約、協議書、特別委員会など決定する。
昭和30年3月1日古里・田原両村合併を知事に陳情する。
同年3月2日古里村・田原村・羽黒村・絹島村の四箇村の村長・議長などが県地方課で会議、地方課長より古里村・田原村と羽黒村・絹島村の各二箇村合併事務処理指示がある。
同年3月7日古里村・田原村議会で二箇村合併を議決する。
同年3月9日古里村・田原村区域を「河内村」として4月1日施行する旨知事に申請する。
同年4月1日「河内村」誕生する。(今から64年前)
その後、昭和41年町制施行により「河内町」となり、翌年42年役場庁舎新設(写真)、平成19年3月31日宇都宮市に編入合併し、宇都宮市39地区の一つ「河内地区」として現在に至っています。
旧河内町役場
まちづくり情報紙かわち第67号
(令和元年7月発行)より
☆宇都宮市河内地区の誕生(その1)
国と栃木県の温度差
前号まで、明治22年(1889)4月1日、明治の合併により誕生した古里村・田原村、昭和30年4月1日、昭和の合併で両村が合併して誕生した河内村・河内町について合併経過を掲載してまいりました。
今から13年前の平成19年(2007)3月31日、河内町が宇都宮市に編入合併して宇都宮市の河内地区と成るまでの平成の合併について掲載します。
河内村から河内町となった昭和41(1966)年の前の年(昭和40年)国において「市町村の合併の特例に関する法律(合併特例法)」が施行され、10年ごとに延長・改正が行われたが、元号が昭和から平成になっても地方自治体においては合併論議が高まることがなかった。
その為、政府は合併論議を高めようと次の政策を行ったが、当時の栃木県においては高まることがなかったようです。
平成5年(1993)6月3日 地方分権の推進に関する決議(衆議院)
平成5年(1993)6月4日 地方分権の推進に関する決議(参議院)
平成7年(1995)4月1日 市町村合併特例法の改正を施行
・合併協議会設置に係る住民発議制度の創設。
議員の定数・在任特例の拡充。
過疎倭の特例措置の創設など
平成7年(1995)7月3日 地方分権推進委員会発足
・政府の地方分権推進委員会が国庫補助負担金の整理統合化と地方自治体の行政体制の整備を柱とした第二次勧告を機に、一部の市町村では合併論議が高まっている様子も見られるが、栃木県の場合合併機運が全県的に盛り上がっているとは言えなかった。
そもそも合併は善なのか悪なのかという根本命題について、議論が深まれば深まるほど混戦するというのが実態でもあった。
その当時全国市町村会発行の「町村週報」6月30日号に、慎重論は示唆に富んだもので、その論旨は
①地方政府(自治体)は単なる地方行政機関ではない。
そこに住む人々の愛着・誇り・生活習慣などの「こだわり」を反映しなければならす、効率とはなじまない
②適正規模といった都合の良い理論などないとの記述を読んだ覚えがあります。
また、当時の茨城県85、群馬県70に対して、栃木県の市町村数は49。
栃木県は合併先進県であり、今回の合併論議は地方分権推進委員会の行政効率を求める立場が全面に出ているが、効率だけでは解決できない「地方の味」を原点に置き、慎重な論議を望みたいと感じるとの記述も当時目にしました。
・当時の渡辺文雄知事は県公館で開かれた「こんにちは知事さん」で市町村合併論議について「(住民が首長に対して)親近感がない所で(首長は)地元に密接した行政はできない。」住民が首長に親しみがわき、首長が全住民に目が届くような行政ができる市町村合併こそ、合併論議の本節であることを強調しました。
河内町が宇都宮市に吸収合併された場合を例に出し「事務能力は上がるが(町民の)心は市長を知らない。」と、住民の心情が首長から離れてしまう恐れを指摘したとの新聞記事を当時読んだ記憶があります。
まちづくり情報紙かわち第68号
(令和元年10月発行)より
☆宇都宮市河内地区の誕生(その2)
アメとムチ
平成11年(1999)市町村合併特例法の改正により、合併をめぐる障害を除去するため次のような措置(アメ)が講じられた。
平成11年(1999)7月8日地方分権一括法成立・市町村合併特例法の改正を施行、・住民発議制度の拡充、市となるべき要件の緩和、地域審議会の設置、地方交付税の額の算定の特例(合併算定聾の期間の延長)、地方債の特例(合併特例債)など
平成12年(2000)4月1日地方分権一括法施行・この特例法によって手厚い財政支援を受けられる合併申請期限が平成17年(2005)年3月31日(ムチ)となっていたので、各地で合併協議会が急速に進み、その結果全国3,232市町村から平成22年(2010)年3月末には1,727市町村に、栃木県内も49市町村が25市町に編成され現在に至っている。
河内町でも、平成12年(2000)12月5日河内町議会「一般質問答弁」で当時の稲垣稔町長が本会議において「合併は住民の希望を理解しながら進めなければいけない」とした上で、個人的な意見だが「水道、消防、ごみ処理、医療」事業などの共同処理で宇都宮布とのかかわりがあり「合併する場合、隣接の上河内町との対等合併で市制移行を目指すものでなく、編入パターンの宇都宮市との合併の方が望ましい」との考え方を初めて示した。
また、合併特例法が平成17年3月31日までの時限立法であることを踏まえ「合併のメリット、デメリット」を示しながら、早い時期に何らかの形で、住民の意向を把握したい。
議会には合併問題の研究の場をつくってほしいと要望した。
栃木県でも、平成13年(2001)1月12日生活圏や市町村行政の結び付き、住民アンケート結果、地域の合併機運、行財政碁盤の強化などを基準として、県内49市町村を五つの合併パターンにして、栃木県両町村合併推進要綱を策定、栃木県議会総務企画常任委員会に報告した。
これは、当時の自治省が市町村合併の論議を活発化させるため、都道府県に対して具体的な市町村の組み合わせ案を作るよう要請、県は論議のたたき台としてもらう狙いで策定した。
河内町は拠点都市形成型として、宇都宮市・上河内町との組み合わせとなっていた。
今日の県内25市町と如何でしょう。
5パターン(15組み合わせ)
・拠点郡市形成型(宇都宮市・上河内町・河内町)(小山而・南河内町・国分寺町・野木町)
・生活圏・行政権一体型(黒磯市・那須町)(大田原市・湯津上村・黒羽町・西那須野町・塩原町)(矢板市・塩谷町)(日光市・今市市・足尾町・粟山村・藤原町)(鹿沼市・粟野町)(真岡市・二宮町・益子町・茂木町・市貝町・芳賀町)(栃木市・西方町・大平町・都賀町)(佐野而・田沼町・葛生町)
・市制移行型(南那須町・烏山町・馬頭町・小川町)(氏家町・高根沢町・喜連川町)(上三川町・壬生町・石橋町)
・行財政強化型(藤岡町・岩舟町)
・単独市(足利市)
まちづくり情報紙かわち第69号
(令和2年1月発行)より
☆宇都宮市河内地区の誕生(その3)
住民アンケートと意向確認
平成13年(2001)12月15日合併問題検討委員会・同研究会の設置要領制定
・いま、気になる市町村合併・住民アンケート・住民説明会などについて検討に入る。
平成14年(2002)6月9日稲垣稔町長退任6月10日玉生勝経町長就任
・選挙で争点となった町の合併問題について「前向きに取り組み、住民の合意形成に努めたい」と決意を表明した。
平成14年(2002)10月2日 上河内・河内合併問題懇談会開催(議員)
・市町村合併の手順を学ぶ、合併の是非やどこの市や町との合併をするかなどの議論は次回に持ち越した。
平成14年(2002)10月7日・いま、気になる市町村合併パンフレットを全世帯に配布する。
平成14年(2002)10月28日 第1回住民アンケートを実施
・無作為抽出した一割(2,700人)に郵送・回収、設問は
①合併への関心度
②賛成か反対か
③合併の相手先(①上河内町②宇都宮布と上河内町③宇都宮市と上河内、上三川、壬生、石橋④その他の四パターン)
④賛成の理由
⑤反対の理由の五項目
平成14年(2002)11月28日~12月12日 座談会開始
・市町村合併に関する座談会を町合併問題検討委員会で委員長代理を務める総務課長を始め、企画課長ら担当職員が出席。
現在集計中のアンケートで「賛成6割・反対2割・どちらともいえない2割」であることを報告した。
町民から「住民サービスがどう変わるのか、総合的に分かりにくい、合併までのスケジュールが知りたい、現在の進捗率状況や町はどう考えているのか、自治会単位で説明して欲しい、住民の意向をもっと吸い上げて欲しい」などの質問や要望に答えた。
座談会は町内三地区(福祉センタI・岡本コミュニティプラザ・田原コミュニティプラザ)で二回ずつ開催した。
平成14年(2002)12月6日 第1回住民アンケート結果報告
・回収数1,426通(回収率52・8%)、合併(賛成64%・反対20%)、合併相手先は、住民の73%が宇都宮市と上河内町の一市二町を望み、最も少なかったのが上河内町8%だった。
賛成理由「行政組織のスリム化や財政面の効率化・公共施設の効率的な整備・利用)
反対理由「現在のままで十分であり合併の必要性はないため」となっていた。
この結果は合併座談会でも資料配布した。
平成15年(2003)4月14日 第2回住民アンケートを実施・結果
・無作為抽出した有権者5割(14,000人)を対象に行った結果、回収率49・5%、
「賛成71%・反対13%・どちらともいえない16%」となった。
まちづくり情報紙かわち第70号
(令和2年4月発行)より
☆宇都宮市河内地区の誕生(その4)
合併への歩みと挫折
平成15年(2003)6月6日 宇都宮地域任意合併協議会設立
・構成市町(宇都宮市・上三川町・上河内町・河内町・高根沢町)、事務事業の擦り合わせなど、合併協定項目の調整を行う。
平成16年(2004)1月29日 1市3町会談
・宇都宮市に上三川、河内、上河内3町の首長が宇都宮市長と会談、法定合併協議会を2月1日設置する事で合意。
法定協の会長に福田富一市長が就任するなどを確認した。
初会合は同4日開催を予定した。
平成16年(2004)2月4日 宇都宮地域合併協議会設立
・任意合併協議会から法定協議会へ移行した。
平成16年(2004)4月19日~5月9日 市町建設計画 説明会
・新市の将来像となる建設計画の説明会を町内四会場(福祉センター・岡本コミュニティプラザ・田原コミュニティプラザ・中央公民館)で全10回開催する。
平成16年(2004)8月26日 上三川町が脱退意向表明
平成16年(2004)11月28日 佐藤栄一宇都宮市長就任
平成16年(2004)12月6日 佐藤栄一宇都宮市長と2町首長(河内・上河内)会議において合併推進の意向確認する。
平成16年(2004)12月10日 河内町議会で否決
・宇都宮地域合併協議会から上三川町が離脱を表明しているので、新たな枠組みをめぐり、河内町議会は12月定例会最終日に、上三川町を除く1市2町による合併協議会の枠組み変更に関する議案を追加上程した。
質問方法(持ち時間30分一問一答形式)
・討論の結果、賛成8、反対10で否決。
平成16年1月の合併協議会設置議案
採決には、反対町議はわずか4人でしたが、1年たらすで、賛成する議員数を反対数が上回った。
その原因は議会制度(議員定数)に対する宇都宮市議会との主張の相違と思われる。
その主なものは、河内町議会議員は合併時に失職せず最長で二年在職できる「在任特例」の適応、旧河内地区議員枠選挙と人口的10,000人に市議一人枠の確保、宇都宮市議会議員選挙の統一選挙に移行する時期などの「ずれ」が合意に至らなかったと当時私は推測した。
・このことにより、合併特例法の期限内(平成17年3月31日)の合併申請は難しくなったことにより、宇都宮地域合併協議会を廃止する方向となり、当分の間町単独の道を選択することとなった。
平成16年(2004)12月22日 市町合併の経過概要報告書を自治会回覧する。
平成16年(2004)12月27日 河内町議会臨時会
・1市3町による宇都宮地域合併協議会を廃止する議案を上程し、全会一致により可決した。
河内町議会棟3F張り出し部
まちづくり情報紙かわち第71号
(令和2年7月発行)より
☆宇都宮市河内地区の誕生(その5)
合併破たんから再歩み
平成17年(2005)1月29日 市町村合併住民説明会(6回開催)説明趣旨は、合併破たんにより、河内町の合併に係る経過の説明と意見を拝聴した。
・説明資料には、平成13年12月15日合併について河内町が検討した「合併問題検討委員会・同研究会」設置要綱制定内容とその後二回の住民アンケートや合併座談会の結果報告、平成16年2月4日1市(宇都宮)3町(河内・上河内・上三川)で構成する「宇都宮地域合併協議会」設立、その後の上三川町の離脱意向に伴い平成16年12月10日開催した定例会で1市2町で構成する「宇都宮地域合併協議会」の規約変更の議会での否決に伴う、平成16年12月27日臨時会において1市3町で構成する「宇都宮地域合併協議会」を廃止にする議案の全会一致可決までの経過(前号までに記載)と税・消防団・自治会・証明手数料・国保と生活環境・福祉と保健・産業と農業委員会・上下水と集落排水・建設・教育の10項目及び財政計画についてまとめた「合併前 と合併後の住民負担とサービスの比較表」の内容でした。
平成17年(2005)2月21日 平成17年度当初予算を発表
・市町合併の破綻に伴い、単独で行政運営が迫られるため、平成17年度は現在の町総合計画(平成8年~平成17年)の最終年度となるので、新たに町総合計画を策定し、継続事業の見直しをする。
その一環として、町の一大事業である総合運動公園整備事業は事実上計画を一時ストップ。
その概要は陸上競技場や屋内プール整備に77億円を投資、計画ではさらに多目的広場などに約13億9700万円が掛かる見込みでしたが、今回策定する町総合計画(2006年~2015年)と整合性を図りながら、凍結を含めて事業の進め方を検討することになるなどの平成17年度当初予算を発表した。
平成17年(2005)3月2日 河内町臨時会
・宇都宮市との合併か、町単独で町政を行うか二者選択で有権者に問う住民投票条例(案)の採決を行い「賛成17・反対1」で可決した。県内で住民発議による合併の是非を問う住民投票は、日光市に次ぎ二例目でした。
・当時の玉生町長は、住民投票の日程を4月12日告示、同17日投票日と決める。
・住民投票条例が一転して大差で可決となった背景には、住民団体が合併を目指して収集した署名数の「重み」が影響したとみられる。「民意の反映」を訴える住民団体「町の将来を考える会」は、約二週間で有権者の約6分の1の署名を収集した。
市町村合併の協議結果説明会資料●市町村合併の協議結果の概要 平成13年度からの取り組みから現在に至るまでの概要 ●住民負担とサービスの比較表 1市3町が合併した場合の、住民負担とサービスの変化
※財政計画 ●合併後の新市の財政計画 ●単独の場合の財政計画 (投資的経費を10億円と設定、投資的経費を7億円と設定)
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まちづくり情報紙かわち第72号
(令和2年10月発行)より
☆宇都宮市河内地区の誕生(その6-1)
合併推進・編入合併
平成十七年(2005)三月三十一日 市町村合併の特例等に関する法律(合併特例法)の期限満了
・県内では、平成十七年(2005)一月平成の大合併第一号となっ た那須塩原市(黒磯市・西那須野町・塩原町)
二月佐野市(佐野市・田沼町・葛生町)
三月さくら市(氏家町・喜連川町)が新たな自治体となった。
平成十七年(2005)四月一日市町村合併の特例等に関する法律(合併新法)を施行
平成十七年(2005)四月四日住民投票パンフレット配布
(表題・町民の皆さんへ4月17日は、住民投票の投票日です。)
書名等
・表紙には、
『今回、4,696人の署名を添えた住民投票条例制定の直請が行われ、三月二日の議会臨時会において「河内町の合併について意思を問う住民投票条例」が議決され、同日公布となりました。
この住民投票は、町民の皆さんが、町の将来(町づくり)を方向付けしていくという意思表示の場でもあり、非常に重要なものです。
皆さんが内容を理解した上で投票していただきますようお願いします。』
と記載されています。
・また「河内町の合併についての意思を問う住民投票」の概要の中に、成立要件として。
投票資格者総数の2分の1以上(50%以上)の投票により成立します。
満たない場合には、開票は行いません。
と有りました。
平成十七年(2005)四月十七日
住民投票・宇都宮市と合併支持 |
・開票結果
☆投票総数15,630票
有効投票数15,506票 無効投票数124票
☆有効投票数における選択肢ごとの投票数
*「単独で町政を継続する」 2,228票
「14・31%」
*「宇都宮市との合併」 13,278票
「85・63%」
区分 |
投票当日資 格者数(人) |
投票者数 (人) |
棄権者数 (人) |
投票率 (%) |
計 | 27,471 | 15,630 | 11,841 | 56.90 |
男 | 13,551 | 7,431 | 6,120 | 54.84 |
女 | 13,920 | 8,199 | 5,721 | 58.90 |
まちづくり情報紙かわち第73号
(令和3年1月発行)より
☆宇都宮市河内地区の誕生(その6・2)
合併推進・編入合併
前号(1月号)で住民投票結果表のとおり、投票率的56・90%は住民投票条例で規定した開票するための要件「50%以上の投票率」を上回り、「宇都宮市との合併」が85・63%と半数を越え、住民が宇都宮市との合併を望んでいることが明確になりました。
宇都宮市との生活圏が一体であることや将来に対する財政的な不安などによる結果と当時私は想像しました。
この結果を踏まえ、当時の玉生町長は、投票翌日宇都宮市長・上河内町長を訪問して、投票結果と宇都宮市との合併協議へ向けた調整に入るための組織を立ち上げ、円滑な合併協議へと展開できるよう申し入れしました。
平成17年(2005)5月31日 国は、自主的な市町村の合併を推進するための基本的な指針(基本指針)を告示
平成18年(2006)3月28日「栃木県市町村合併推進構想」を策定し、「宇都宮市・上河内町・河内町」を望ましい構想対象市町村の組み合わせとして選定しました。
平成18年(2006)4月1日「河内町総合計画(平成18年度~平成27年度)」将来像「夢ふくらませ、つよい絆で未来を拓く、田園都市・かわち」がスタート。
この計画は、宇都宮市と合併する一年間と短い総合計画となってしまいましたが、河内地区まちづくり協議会が「河内地区地域ビジョン」を平成28年3月別日に策定に至るまでの貴重なまちづくりの仕法となり、計画の趣旨は地域ビジョンの将来像「自然と人を大切に絆で結ぶ楽しいかわち」に受け継がれているものと私は理解しています。
平成18年(2006)6月9日
手塚照夫町長就任
平成18年(2006)8月9日
「宇都宮市・上河内町・河内町」の「合併市町村基本計画素案」を発表。
平成19年(2001)2月31日
宇都宮市に編入合併し「河内地区」として現在に至っています。
☆昭和の合併以降の国勢調査(河内地区)人口推移
年度 | 人口(人) | 増減(人) |
昭和30年 (1955) | 13,616 | ― |
昭和40年 (1965) | 13,505 | 105 |
昭和50年 (1975) | 19,193 | 4,361 |
昭和60年 (1985) | 26,266 | 2,843 |
平成7年 (1995) | 32,616 | 2,533 |
平成17年 (2005) | 35,176 | 866 |
平成27年 (2015) | 34,903 | 255 |
まちづくり情報紙かわち第74号
(令和3年4月発行)より
☆平成の大合併総括(パート1)
河内町から宇都宮市河内地区になった経過を前号(2021・4月号)まで記述してまいりました。
今回河内地区を含めた県内市町村の合併協議会を設立しては廃止を繰り返し、その後新しい市・町が新設された経過を見てみましょう。
一九九八(平成10年) |
4月 |
栃木市・小山市合併協議会設置・二〇〇〇年六月休止 |
一九九九(平成11年) |
7月 |
市町村合併特例法(合併旧法)改正法施行
債務の七割を国の負担にできる合併特例債の創設、普通交付税の総額を交付(合併算定替)する期間の延長などの支援措置強化 |
二〇〇〇(平成12年) |
4月 |
地方分権一括法施行 |
二〇〇一(平成13年) |
1月 |
栃木県市町村合併推進要綱を策定
8月知事を本部長とする県市町村合併支援本部を設置 |
二〇〇二(平成14年) |
3月 |
栃木県市町村合併支援プラン策定 |
二〇〇三(平成15年) |
5月 |
大平町・岩舟町・藤岡町合併協議会設置・二〇〇四年四月廃止 |
7月 |
南那須地区合併協議会(南那須町・烏山町・馬頭町・小川町)設置・二〇〇四年一〇月廃止 | |
8月 |
矢板市・塩谷町合併協議会・二〇〇四年一二月廃止 | |
二〇〇四(平成16年) |
1月 |
芳賀地区合併協議会(真岡市・二宮町・益子町・茂木町・市貝町)設置・二〇〇四年八月廃止 |
2月 |
宇都宮地域合併協議会(宇都宮市・上三川町・上河内町・河内町)設置・二〇〇五年一月廃止 | |
3月 |
芳賀町・高根沢町合併協議会設置・二〇〇四年七月廃止 | |
5月 |
宇都宮市・高根沢町合併協議会設置・二〇〇五年六月廃止 | |
二〇〇五(平成17年) |
1月 |
黒磯市・西那須野町・塩原町が合併し「那須塩原市」を新設。
「平成の大合併」の県内第一号 |
2月 |
佐野市・田沼町・葛生町が合併し「佐野市」を新設 | |
3月 |
氏家町・喜連川町が合併し「さくら市」を新設 | |
4月 |
新市町村合併特例法(合併新法)施行、財政上の優遇措置がほとんどなくなる。 | |
10月 |
大田原市に湯津上村・黒羽町が編入合併
南那須町・烏山町が合併し「那須烏山市」を新設 馬頭町・小川町が合併し「那珂川町」を新設 |
|
二〇〇六(平成18年) |
1月 |
鹿沼市に粟野町が編入合併
南河内町・石橋町・国分寺町が合併し「下野市」を新設 |
3月 |
日光市・今市市・足尾町・栗山町・藤原町が合併し新「日光市」を新設(県面積の約四分の一を占める新市になる。)
県市町村合併推進構想を策定・新県市町村合併支援プランを策定 |
|
二〇〇七(平成19年) |
3月 |
宇都宮市に上河内町・河内町が編入合併(北関東三県で初の五〇万人都市になる。) |
11月 |
県市町村合併推進構想(第二次) |
まちづくり情報紙かわち第75号
(令和3年7月発行)より
☆平成の大合併総括(パート2)
・前号に引き続き県内合併の経過を掲載します。
二〇〇八(平成20年) |
12月 | 栃木地区合併協議会(栃木市・西方町・大平町・藤岡町・都賀町)設置・二〇〇九年10月休止 |
12月 |
佐野市・岩舟町合併協議会設置・11月廃止 | |
二〇〇九(平成21年) |
3月 | 真岡市に二宮町が編入合併 |
3月 |
県市町村合併推進構想(第三次) | |
11月 |
県市町村合併推進構想(第四次) | |
二〇一〇(平成22年) |
3月 | 栃木市・大平町・藤岡町・都賀町が編入合併し新「栃木市」を新設 |
4月 |
改正合併新法施行 | |
二〇一一(平成23年) |
10月 | 栃木市に西方村が編入合併 |
二〇一四(平成26年) |
10月 |
栃木市に岩舟町が損入合併
(県内の市町村合併が一区切りする。) |
・ここまでの、県内の平成の大合併の歴史は、栃木市で始まり栃木市で幕を閉じた感じがします。
二〇二〇(令和2年)3月27日参議委本会議可決成立
(市町村合併、10年間延期)
・前号で記述しましたが、平成の合併を進める旧特例法(二○一○年3月末日期限)を改正して平成17年4月から10年間の期限付きで施行(二〇二〇年3月末日期限)、そしてその市町村4日併特例法を10年間延長し、二○三○年3月末日までとする改正法が成立しました。
国や都道府県が市町村に合併を迫る旧法の規定を廃止して、自主的な合併は行財政の基盤の強化策に有効とし、合併後に地方交付税が急減しないよう算定で優遇する仕組みや、一定期間は議員定数を減らさない特例などを維持、市町村の自主的な合併に支障が出ないよう、国が引き続き支援するとあります。
今後県北自治体において、広域事業推進を図りながら合併に至るのか、本年度から県が策定した「過疎地域持続的発展方針」の対象地域となった6市町10区域「日光市(旧足尾町・旧栗山村・旧日光市・旧藤原町)大田原市(旧湯津上村・旧黒羽町)那須烏山市(旧烏山町)茂木町・塩谷町・那珂川町」の動きと合併との関係がどのようになるのか、二〇三〇年3月末日までの取組を注視したいと思います。
☆二〇一八(平成30年〉1月号発行から16回に渡り、明治・昭和・平成の合併経過を記述してまいりましたが今回を以て終了です。
拙い文面に感心を持って読んでいただいた皆様方に心より感謝申し上げます。
まちづくり情報紙かわち第76号
(令和3年10月発行)より
☆まちづくり編(その1)
平成19年3月31日宇都宮市に編入合併した旧河内町地区は、宇都宮39地区の河内地区として今日に至っています。
合併当初から約10年間は旧河内町庁舎(白沢町五〇〇番地)を「河内地域自治センター」と改名して行政サービスを行っていましたが、河内地区住民が身近な場所で様々な申請や届け出などの窓口サービス業務等を行う行政サービスの拠点となる地域の行政機関の施設及び住民自らが学習するとともに、地域住民や各種団体が集い、活動を行うことができる地域のまちづくりと人づくりの機能を有した河内地域自治センター(中岡本町3221番地4)が平成28年3月14日に供用開始し、平成29年4月1日「河内地区市民センター・河内地区生涯学習センター」に改名して5年目となっています。
その間、平成21年1月22日に連合自治会やリサイクル推進協議会など地域内の各種団体で構成された「河内地区まちづくり協議会」が設立され「河内らしさ」の醸成に努めてきました。
その成果として、住民主体のまちづくり、すなわち自分の住む地域のことは自分たちで考え行動する機運が高まりつつあったので、さらに「河内らしさ」を具現化して、みんなが豊かで住みやすい地域になるよう、河内の将来あるべき姿「河内地域ビジョン」の策定に取り組むため、平成26年11月自治会加入世帯9,373世帯、河内地区6小学校5年生359名・3中学校2年生322名にアンケートを行い、その内容を分析して、平成28年3月に河内地区地域ビジョン「自然と人を大切に絆で結ぶ楽しいかわち」をキャッチフレーズにして、実践プラン(平成28年度~令和2年度前期計画・令和3年度~令和7年度後期計画)により、毎年度行動計画を策定して「河内の会旗」のもと、令和3年度もまちづくりを推進しています。
次号から、河内地域ビジョンの前身となる旧河内町でのまちづくり計画策定での社会背景を踏まえ、町に住む人々が「河内に住んで良かった」と言える目標(将来像)をその都度掲げながら、まちづくりを推進してきた歩みを紹介してまいります。
まちづくり情報紙かわち第77号
(令和4年1月発行)より
☆まちづくり編(その2)
「河内」村という名前は、将来さらに町村合併が起こり「河内郡」の名称が消える可能性があり「河内」の名前を是非とも残していきたいという意見から「河内村」に決定した。
その河内村においては、昭和30~39年度までのまちづくり計画は、現在のような明確なビジョンを掲げたものが無く、予算の計上説明内容をまちづくりとして村政に取り組んでいたと考えられます。
昭和30年合併当時の人口一三,六一六人から10年経た昭和40年でも一三,五〇五人と人口が伸びなかった当時、自治会名は「部落」でした。
(例:昭和13年4月 田原村大塚部落、昭和30年4月 河内村大塚部落、昭和41年4月河内町大塚部落、昭和50年4月 河内町大塚自治会)また、行政の連絡の封書には大字・地番なしの部落名(例:区内稚ヶ坂第二)で届き、殆どの家庭に本電話(固定電話)がなく有線放送が主体の情報網でした。
会議などで県庁職員や市町村職員に二つの関心事を尋ねられた記憶が有ります。
その一つは初代「高橋四郎村長」の学歴と行政手腕への期待でした。
二つ目が「村」なのに岡本駅前の土地区画整理事業に取り組む先進的な姿勢への驚きと、動向がどのようになるのかでした。
昭和37年(1962年)
当時の封書
昭和30年 |
☆旧古里村・田原村合併し河内村が誕生☆河内村体育協会結成
☆第一回村民体育祭開催 |
昭和31年 |
★古里・田原青年団及び婦人会合併★工場誘致条例制定 |
昭和32年 |
★農事放送組合有線放送電話開通 |
昭和33年 |
☆国民健康保険の実施 |
昭和34年 |
☆稚児坂簡易水道竣工、給水開始
☆白沢小学校校舎完成 |
昭和35年 |
☆岡本小学校校舎完成 |
昭和36年 |
☆河内村商工会発足☆都市計画区域「白沢・中岡本、東岡本・
下岡本」決定 |
昭和37年 |
★白沢保育園開園☆岡本工業団地工場誘致開始 |
昭和38年 |
☆岡本・上田原簡易水道竣工、給水開始 |
昭和39年 |
(村)岡本駅前土地区画整理(岡本駅前一区S39~S53・36ha)
☆広報「かわち」創刊 ★国道4号線岡本地内を東京オリンピック聖火が通過 |
【凡例】 |
☆継続★完了 (村)河内村営 |
まちづくり情報紙かわち第78号
(令和4年4月発行)より
☆まちづくり編(その3)
昭和39年度に村独自の総合計画書を執行部(行政部門)が策定、現在のような将来像はなかったが「村」から「町」になるためのビジョンでした。
その計画に盛り込んだ施策に取り組んだ結果「河内町」が誕生しました。
財源確保のため、昭和31年工場誘致条例を制定して、工場誘致に会社訪問に行っても、始めに「村」ですか、と言われ、誘致の話に入れなかったことが何回もあった話しを先輩職員から聞きました。
また、進出した会社名も冠等に「宇都宮」を名乗る会社が有ったほど「村」にある工場での操業を明確に表
示しない会社が見受けられました。
人口関係においては、県都宇都宮市に隣接する立地条件の良さから、栃木県施工の土地区画整理事業(釜井台)が開始、昭和45年の新都市計画法の適用前に民間による住宅団地開発許可申請と施工が実施されたため、昭和40年人口一三,五〇五人から5年間で昭和45年には一四,八三二人を数え、宇都宮市のベッドタウンとして増加傾向に転じ始めた時期でした。
昭和40年 |
★河内村公民館開設 |
昭和41年 |
★町制施行「河内町」誕生、記念にNHKのど自慢素人演芸会が古里中学校体育館で開催
(町)中道土地区画整理(白沢南S41~S42/3.6ha)で庁舎建設用地確保 (民)太陽ヶ丘団地宅造(太陽ヶ丘S41~S42/22.2ha) |
昭和42年 |
★田原保育園開園
★河内町役場庁舎完成 (県)釜井台第1,2土地区画整理(釜井台一二三区S42~S46/30.1ha) |
昭和43年 |
★文化財保護条例制定
昭和44年 ☆岡本児童館開館 ★岡本保育園開園 (民)自由ヶ丘団地宅造(自由ヶ丘S44/3.1ha) |
昭和45年 |
☆町全域都市計画区域及び農業振興地域指定決定
★下田原分教室閉校 |
【凡例】 |
☆継続・存在★完了・消滅
(町)河内町(県)栃木県(民)民間 |
都市計画図
まちづくり情報紙かわち第79号
(令和4年7月発行)より
☆まちづくり編(その4)
昭和44年地方自治法の改正により、地方自治体は総合計画を策定し、計画 的なまちづくりが始まりでした。
その為、河内町は昭和45年4月、行政機構 の見直しを行い、計画策定に取り組む部署として企画室を新設、河内町での 議会承認を得る最初の計画(第1次計画)名は「河内町振興計画」でした。
素案策定には、初めての取組だったので執行部と議会とが何回も策定内 容の協議を繰り返した結果、流入人口や工場誘致など町を取り巻く急激な 変化に、柔軟に対応できる計画を念頭に入れながら計画策定を行いました。
その結果、計画期間を昭和46年度~50年度の5ヶ年間の計画とし、将来 像を「人間性の回復と確立」と定められました。
当時は民間の住宅団地の 開発が本格化し、全国的には公害の発生が課題となる中での工場誘致を推進、土地利用計画においては新都市計画法(昭和45年)による市街化区域と市街化調整区域に線引きした街づくりがスタートした時期での5ヶ年計画でしたので、将来像を分かり易くするため、サブタイトルを「均衡と調和の取れた秩序ある開発をめざして」とし、昭和50年に一九一,九三人を数え、急激な人口増に伴ない発生する公共施設整備の財源確保策に宅地開発事業者から開発面積に応じた負担金を徴収する宅地開発指導要綱を定め、その資金等を運用しながら学校などの公共施設を整備しました。
昭和46年 |
☆白澤・岡本・田原小学校のプール完成 ☆スポーツの町宣言 |
昭和47年 |
☆都市計画区域内の用途地域決定 ☆新幹線のボーリング開始 ☆岡本・稚児坂簡易水道が宇都宮市水道局に編入 ☆ごみ収集・し尿処理委託業務開始 ☆古里・田原中学校のプール完成 |
昭和48年 |
☆白沢南~駅前間舗装完成 (県)宝井団地宅造(S48~S61・16ha) |
昭和49年 |
☆阿久津大橋開通 ★老人憩いの家「こんぴら荘」開設 (民)宇都宮グリーンタウン宅造(グリーンタウンS49~S53・78ha) (民)岡本台ハイツ宅造(岡本台ハイツS49~S53・16.5ha) |
昭和50年 |
☆岡本西小学校開校 (民)高崎ハイツ宅造(稚ヶ坂第二S50~S51・3.5ha) |
【凡例】 | ☆継続・存在★完了・消滅(民)民間 |
まちづくり情報紙かわち第80号
(令和4年10月発行)より
☆まちづくり編(その5)
昭和51年度~60年度の第2次計画(河内町振興計画)では、「①くらしと生産の基盤づくり②快適で安全な生活環境施策③しあわせな町民生活のための福祉の充実④自然と調和した活力ある産業の進行⑤未来をつくる人間形成」の5本の柱を核として、前期計画(昭和51年度~56年度)では、将来像を第一次河内町振興計画から踏襲する形とし「高福祉による豊かな人間性の確立」のまちづくりを推進したが、宅地開発が急激に促進されたため、新たに後期計画(昭和55年度~60年度)の将来像を「明るく豊かな住みよいまちづくりをめざして」と、異例の将来像変更を行った。
昭和50年からの10年間に人口が七〇七三人増加し二六,二六六人を数え、県下一位の伸び率となり、20年間で古里村と田原村が合併して誕生した河内村当時の約2倍の人口になった。
昭和52年 ☆古里中学校新校舎完成
昭和53年 ★町花「サギソウ」
★町木「ツゲ」
★河内町音頭を制定
★中央公民館完成
☆岡本小学校増築工事完成
昭和54年 ☆河内清掃工場操業開始
☆河内下田原運動公園オープン
☆田原中改築工事完成
☆岡本駅前土地区画整理事業完成
昭和55年 ☆岡本西小学校増築工事完成
☆町営墓地(河内霊園)完成
昭和55年 ☆河内体育館完成
昭和58年 ☆岡本北小学校開校
☆(組合)金井台土地区画整理(奈坪三区S58~S63・26・4ha)
昭和59年 ★保健センターオープン
☆中小工業団地完成(白沢町)
昭和60年 ★合併30年記念・町民憲章制定
【凡例】☆継続・存在 ★完了・消滅
河内町憲章
河内町は、水と緑に恵まれた、歴史と伝統にかがやく町です。
わたしたちは、河内町民であることに誇りをもち明るく住みよい、郷土を築くため、この憲章を定めます。
1、スポーツに親しみ、健康で明るい町をつくります。
2、心のふれあいを大切にし、住みよい街をつくります。
3、教養を深め、文化のかおり高い町をつくります。
まちづくり情報紙かわち第81号
(令和5年1月発行)より
☆まちづくり編(その6)
令和5年4月は、栃木県誕生(本情報紙平成30年4月発行記載)150周年であり、岡本・白沢・田原小学校の誕生150周年の節目の年です。
今回は、昭和61年度~平成7年度の第3次計画(計画名称・河内町総合計画)です。
第2次河内町振興計画がもたらした、豊かな自然環境と都市機能の充実を推進した結果、良好な住宅地としての河内町の魅力が高まり、人口の増加傾向も続いていることを踏まえ、各種の社会的な機能を高めるといった定住
環境整備の必要性を盛り込み、成熟したまちづくりを行う計画推進するため、将来像を「水と緑を生かした活力とふれあいの田園都市」とし、急速な都市化に伴なって生じた住宅・工場・農業の混在した土地利用の再編を目指し、道路等の交通網整備を進めていくことにより、良好な自然環境を有する田園住宅都市として発展しました。
また、宇都宮広域事業としての宇都宮地区の貴重な水源地としての役割も担う町にもなりました。
第3次総合計画期間の10年間で人口が6,350人増加、平成2年は30,083人、平成7年32,616人となり、人口増による学校関係などの施設整備が完了、現在の公共施設の主なものが新増設整備された。
昭和61年 |
☆宇都宮市中央消防署河内分署完成 ☆河内中学校開校 ☆河内図書館オープン |
昭和61年 | (県)奈坪台団地(S62~H4・18.3ha) |
昭和63年 | ☆農業構造改善センター完成 |
平成元年 | ☆公共下水道着工☆白沢小学校改築工事完成 |
平成2年 | ★第一回ホタルのつどい開催 |
平成3年 |
★シンボルマーク及びシンボルカラー制定 ☆ふれあい通り完成 ☆桜づつみモデル事業着工 ★24時間バレーボール大会開始 ☆川の一里塚完成 |
平成4年 |
☆河内西部運動公園オープン ☆岡本小学校校舎改築工事完成 |
平成5年 | ☆総合福祉センター及び白沢児童館オープン |
平成6年 |
☆公共下水道処理センター着工 ☆田原中学校増築工事完成(町)岡本駅西土地区画整理(岡本駅前二・三区H6~・59.2ha) |
平成7年 |
☆田原西小学校開校 ☆岡本コミュニティプラザ及び役場岡本事務所並びに岡本児童館改築オープン ☆公共下水道供用開始 ★さぎ草シンポジウム開催 (県)奈坪ニユータウン(H7~H12・22ha) |
【凡例】☆継続・存在★完了・移行
河内町総合計画・後期基本計画(昭和61年度~平成7年度)
まちづくり情報紙かわち第82号
(令和5年4月発行)より
☆まちづくり編(その7)
昭和51年度~昭和60年度(第2次河内町振興計画)昭和61年度~平成7年度(第3次計画・河内町総合計画)の20年間の計画期間、人口の急増に伴う学校等教育施設整備が進んだ一方で、住民の相互のふれあいやコミュニティ問題、地域間の整備状況の格差が顕著化してきました。
また、都市化の進行により宅地開発が増えたことは、緑地の減少を伴うこととなり、新たな土地利用上の緑を増やす施策が求められ、「物の豊かさ」から「心の豊かさ」へと実感できる施策の重要性が高まるとともに、環境や人にやさしいまちづくりのあり方が問い直されてきていました。
そこで、平成8年度~平成17年度の第4次総合計画の理念を「共生と循環のまちづくり」とし、将来像を「水と緑と人にやさしく 心ときめく田園都市・河内」と定めました。
「人と自然・人と人・都市と農村・人と車が共生するまちづくり」「水・生命の循環を支え、緑を活かすまちづくり」を推進することにより、21世紀の町の姿「自立した住民生活の実現を支援する町」及び21世紀の住民の姿「一人ひとりの希望が実現できるライフスタイル」を目指す計画の下、平成の合併方法を模索しながら計画推進しました。
第4次総合計画期間の10年間の人口が2,559人増となり平成17年は35,175人を数えたが第2,3次計画期間から比べると増加傾向が減速しました。
平成9年 | ★河内サミット交流開始 |
平成11年 | ☆田原コミュニティプラザ及び図書館並びに児童館完成 |
平成13年 | ☆ドリームプール河内オープン |
平成14年 | ☆なかよし保育園完成 |
平成16年 | ☆総合運動公園陸上競技場完成☆グランドワーク活動センター完成 |
【凡例 ☆継続・存在 ★完了・移行】
河内町新総合計画・後期基本計画
(平成8年度~平成17年度)
まちづくり情報紙かわち第83号
(令和5年7月発行)より
☆まちづくり編(その8)
第4次総合計画最終年度の平成17年度は、宇都宮市・上三川町・上河内町・河内町の合併協議会の破綻に伴い(本情報紙令和2年7・10月発行記載)、単独での行政運営が迫られたため、新たに第5次総合計画を策定することになりました。
町の一大事業である総合運動公園整備事業は、それまでに陸上競技場や屋内プール整備に77億円を投資。
計画ではさらに多目的広場などに約13億9700万円が掛かる見込みでしたので、急遽17年度に策定した町総合計画(平成18年度~平成27年度)の財政計画を勘案し、公園整備の凍結や岡本駅前区画整理事業の縮小等、大きな財源を必要とする各事業の進め方を再検討することになりました。
第5次総合計画策定の際実施したアンケート調査では、63%の人が20年以上河内町に住み、10年以上住んでいる方が83%でした。
また、河内町以外で生まれて河内町に住んだ人が75%を示し、その人たちの約60%が河内に愛着を感じながらお住まいになっていました。
愛着を感じて無い人はたったの約6%という愛着度の高い町であり、約80%の方が住みやすい、または、まあまあ住みやすいと回答しています。
この結果は、第1次~第4次総合計画で実施した河内のまちづくり事業の大きな成果と感じとれます。
平成18年4月からのまちづくりの基本となった将来像は、「夢ふくらませ、つよい絆で未来を拓く 田園都市・かわち」でした。
この計画は、河内町が宇都宮市と合併した平成19年3月31日をもって役割を終えますが、その精神は平成28年3月に河内地区地域ビジョンが策定される9年間のまちづくりの道標となって活用されました。
昭和30年度の河内村から宇都宮市に合併した河内町のまちづくり計画の概要は本編を持って終了させていただきます。
河内町総合計画
(平成18年度~平成27年度)
まちづくり情報紙かわち第84号
(令和5年10月発行)より
大塚自治会 増渕 昭