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かわちまちたんけん

“逆面の逆さ井戸の伝説”(前編)

むかしむかしの話です。

田原の郷の山懐(やまふところ)に『逆連(さかづら)』という村がありました。

その村には心が邪(よこしま)な人が覗くと顔が逆さに映ると言われる不思議な井戸がありましたが、夏とは言わず冬とは言わず、清水がこんこんと湧き出していたので、村人たちは野良仕事の行き帰りに顔を洗ったり手足を洗ったりしては美味しい水を頂いていたのだそうです。

 

時は奈良時代の770(宝亀(ほうき)元)年、下野薬師寺の別当になった弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という偉いお坊さんがいました。

末寺巡りの途中で乾いた喉を(いや)そうとその井戸を覗くと、なんと自分の顔が逆さに映っているではありませんか。驚いた道鏡は、その訳を知りたいと北側の山裾にある籠り堂に籠っていましたが、光仁(こうにん)天皇に遣わされた下野守の佐伯伊多知(さえきのいたち)に暗殺されてしまいました。

772年のことです。

坊主殺すと3代(100年)(たた)ると言われていた 頃のことだったので、その祟りを恐れた村人は、亡骸を戸板に乗せて薬師寺 まで運んだそうです。

 

以来この地は『逆面(さかづら)』と呼ばれ、その井戸は『逆さ井戸』、籠った窟屋(いわや)は『道鏡の籠り堂』と呼ばれるようになったそうです。

 

後編につづく・・・

 

地域情報紙かわち 第85号

 (令和6年1月発行)より

“逆面の逆さ井戸の伝説”(後編)

ある時、逆面城に敵襲(てきしゅう)の知らせが入りました。

機織(はたお)りをしていた逆面城主の娘・千鶴姫は、城外に逃げたものの父親の安否も分からず、悲嘆(ひたん)して逆さ井戸に身を投げてしまいました。

村人たちは哀れに思い、井戸に塚を造って(とむら)ってきたそうです。

その時千鶴姫が持っていた『()』が黄金であったとか、江戸時代には逆面氏の家臣団が郷士として土着しその井戸を守護(しゅも)りしていた等と言われています。

しかし文化・文政の頃、宇都宮の町名主「上野久左衛門(うえのきゅうざえもん)」が訪ねてみると、『逆さ井戸』の言い伝えを()み嫌った村人が塚にして(まつ)っていたらしく、井戸は無かったと『下野風土記』に書き留めています。

 1842(天保(てんぽ)13)年、12代将軍・徳川家慶(いえよし)が日光社参の際に、逆さ井戸についてお尋ねがあったので、お答えしたとする古文書(こもんじょ)が残っています。

 

大正末期の頃、千鶴姫の金の『()』などの黄金伝説を信じた3人の村人が塚を掘ってみたそうです。

いくら掘っても泥ばかりで掘り切れず、宝物が出ることはありませんでした。

そして掘った3人は、その年のうちに亡くなってしまったそうです。

 

しかし、おかげで井戸は元のように水を満々と(たた)えるようになりました。

 

地域情報紙かわち 第85号

 (令和6年1月発行)より

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